◻️32の4『岡山の今昔』岡山の藩政(支配構造、岡山藩)

2021-06-16 08:37:34 | Weblog
32の4『岡山の今昔』岡山の藩政(支配構造、岡山藩)

 まずは、農民支配の在り方は、他藩と似たり寄ったりというべきだろうか。岡山藩では、庄屋(名主(なぬし))を中心に、その補佐役としての組頭(年寄とも)が村に一人か二人置かれていた。その任命は、庄屋に準じていたが、ひんぱんに交代していたようである。報酬は米三斗か四斗ぐらいで、高掛り物もいくらか免除されていた。
 農民支配の末端ということでは、そればかりではない。農民に近いところでの百姓代は、岡山藩で元禄以後判頭(はんがしら)といった。庄屋、組頭の行う事務、中でも年貢の割りつけなどの監査に当たるものである。
 こちらは、村民の選挙によって選ばれ、大庄屋が任命する場合が多かったようで、村の大小により一人ないし数人が置かれていた。そして、年貢供出などに関しての連帯責任の代表格を「仰せつかっていた」ことが窺えよう。
 以上の村方三役の他に、しばしば保頭(ほうとう)と称する、藩からの通達なりを触れ歩く役が村に一人か二人いて、村役人の使役に当たっていたようである。


 次に、今からおよそ350年前に出された、当時の岡山藩の法令から、その一部分を紹介しよう。

 「一、百姓共礼儀不正を御見付被成候は、御年寄中を初御近習中・御横目中其御外用人衆、少も御見遁なく郡を御尋、御郡の御奉行へ御つれさせ被遣候様に奉存候事、(中略)

一、士中と見掛候はば、笠頭巾(ずきん)ほうかむりを取、道片寄半腰にて通可申候、惣て奉公人には行當不申様に遠慮仕通可申事、(付紙)御老中様其外歴々へは、ついはい可申事、
一、田畑にて農業相勤申節、士中道を通被申候はば、近所のものは笠ほおかむり物を取、一度つくはい候て其儘(そのまま)耕作可仕候、(付紙)近所之者と申候は、聲届の者と申聞せ候、(中略)
 右之品々違背之者有之候はば、御郡方御用人は不及申何れ士中にても、見合次第に急度捕可申候、其上に御足軽を御廻し捕させ可申候間、末々堅可申付候、右之通十一時朔被仰出、」(「法令集巻七、池田家文書天和三年(1683)」)

 なお、1654年に隠居してからの熊沢蕃山(くまざわばんざん)は、新田開発からは宗門改め、ここに紹介した百姓礼儀の掟といった備前藩の政策につき、津田永忠・群代が関係した政策を含めて幅広く、大いに批判したのが、広く知られている。

(続く)

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◻️44の2の3『岡山の今昔』目代と助郷(江戸時代の吉備)

2021-06-15 18:58:32 | Weblog
◻️44の2の3『岡山の今昔』目代と助郷(江戸時代の吉備)

 まずは、用語の意味から、ごく簡単に説明しよう。目代(もくだい)というのは、元々は、日本でいうところの古代末・中世において、中央から派遣される、地方官たる国守の代官として「任国」に下向(げこう)し、在庁官人を指揮して事務を取り仕切る者をいう。それが、分配(ぶはい)目代、公文(くもん)目代などと称して、かかる事務を分掌していくことにもなっていく。
 それが、鎌倉時代へと向かう中世ともなると、国守が遙任(ようにん)と称して任国に下向しなくなる。すると、目代は、なにしろその事務能力によって登用されたので、留守所の統轄者たる庁目代だけが目代といわれるようになる。
 次に助郷(すけごう)というのは、その初めは鎌倉時代に遡るといわれるものの、広く知られるようになるのは、1637年(寛永14年)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めていることから、江戸時代の初期といったところか。
 五街道を中心に、その他の中規模の街道までも、当時の旅宿駅が常備人馬(伝馬)で負担しきれぬ大通行とか、扱う物資が特別な場合が見込まれる。そんな場合に、本役に追加してといおうか、補助的に人馬を提供する助人馬出役を担うよう、予め定められた村をいう。
 この助人馬をも助郷,あるいは助郷役といって、これまた、1637年(寛永14)には、幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定め、そこそこに申し付けているのであった。

(続く)


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◻️162の1『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小原七郎左衛門)

2021-06-15 06:29:41 | Weblog
162の1『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小原七郎左衛門)

 小原七郎左衛門(おばらしちろうざえもん、?~1677)は、本姓を藤原氏といい、備前領・岡山藩の下道郡((かどうぐん、しもつみしのこおり、明治維新後の1878年(明治11年)に行政区画化されての郡域は、倉敷市の一部(真備町各町・玉島服部)と総社市の一部(高梁川以西)をいう))富原村上原の庄屋である。

 農民のためにと、普段から何かにつけて、生活に困窮するこの辺りの、額に汗して働く人々のことを心掛けにしていたと伝わる。

 かかる折を見て、遂に上原用水取入口の拡張を約し、旧来の溝を改めた。そのことで、岡山藩の隣の岡田領のために便を与えた形となる。

 ところが、である。備前藩主は、これを知り、自領の地を提供して他領の利益を計ったとして彼を罪にし、1677年(延宝5年)には、死罪に処せられる。はたして、この時、藩主を止める役柄の武士は皆無であったのだろうか。

 これを聞いた岡田藩側の領民は、さぞかし驚いたことだろう。その死を悼み、国司神社(現在の大字辻田字森)にその霊を合祀するとともに、その首代として、玄米一俵をその子孫に代々寄贈することを決めたのだという。

 かくて1676年(延宝4年)に造成の現上原井領用水は、現在、かたや備前領富原上原井領用水とは、総社市湛井堰から取水し、総社市秦・上原・富原・下原地区を通り真備町へ流れる農業用水であり、辻田から岡田にかけて県道に並行して、有井雇用促進住宅の南側から箭田地区へ流れているとのこと。
 しかして、上原井領用水区域たる箭田・薗・川辺・岡田・神在に至ると、その辺りは平たい市街地が相当ある中にも、大方手入れが行き届いての五か村の田園風景にて、彼の功によ り長く灌漑の益を受けているのが窺える様子となっている。

(続く)

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◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、黒崎秀明)

2021-06-15 05:59:59 | Weblog
◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、黒崎秀明)


 黒崎秀明(くろさきしゅうめい、1911~1976)は、劇作家、脚本家、郷土史家、版画家と、多彩だ。岡山市蕃山町の生まれ。
 1927年、岡山第一商業高校(現在の岡山東商業高校)を卒業すると、東京へ出て、劇作を学ふ。まだ若くして、特別な学校なり養成所なりに入ってのことではなくて、ほとんと独学にして日々研鑽していたようだ。
 やがて、当時の放送界へ出る。例えば、映画「海の見える家」(1941.4公開、日活の多摩川撮影所)では、原作が本人で、脚本は館岡謙之助、監督は島耕二となっている。
 著書でいうと、「放送劇名作選・新選ラジオドラマ」(森本治吉との共著)、日本放送出版協会、1942年)や「僕等の海軍史物語」 (文修堂、1943)を出版する。
 戦後になっては、NHK岡山放送局専属のシナリオライターとして働く。
 珍しいところでは、本業ではなかったものの、版画が得意であった。1967年には、「版画 岡山後楽園」(河出書房新社)を出版する。郷土史研究もかなりのもので行って、晩年には、岡山県の人物に関する著書
「岡山の人物」(岡山文庫 44) 日本文教出版、1971年)が有名だ。


(続く)

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🙆読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

2021-06-14 08:47:16 | Weblog
読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

 いつもありがとうございます。おかげで、このブログは、なんとか続いています。
 項目数は2300を超え、これまで新しい項目を作っては加え、前のものに改訂を加えたりしてきました。
 構成は、「自然と人間の歴史・世界篇」、「自然と人間の歴史・日本篇」、「岡山の今昔」、そして「自伝」とありまして、都合4つの物語の寄せ集めです。
 これらのうち、前の方の3つは、歴史、しかも過去を尋ねて、というばかりでなく、現在そして未来をなにがしか展望する(言うなれば「論語」でいうところの「新しく知る」)という課題を背負わせているところです。

 例えていうと、「岡山の今昔」は項目数がかなり出揃ってきていて、これからは、内容や体裁(誤字脱字の訂正など)を整えることに主眼をおくつもりでおります。合わせてその中では、これからの岡山を展望する話題も、積極的に取り上げていくつもりでおります。
 またこれに付随して、本ブログとは別に「岡山の歴史と岡山人」を立ち上げています。こちらは、郷土の歴史の流れにできるだけ留めて無難なものに改善を重ねることにより、今は漠然ながら、「将来的になんらかの形で出版できたらいいな」(夢)、と考えているところです。
 
 もちろん、我が身を見ると、微力な上にも微力です。この分野での学力たるや、いまだに、この分野で取るにも足りない存在なのかもしれません。
 そういうことで、今後とも頑張っていきますので、ご支援よろしくお願いいたします。 

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◻️19の1『岡山の今昔』三国の奴隷制と疫病(8世紀)

2021-06-14 08:03:55 | Weblog
19の1『岡山の今昔』三国の奴隷制と疫病(8世紀)


奈良時代(710~791)に大陸から持ち込まれたと考えられている疱瘡(ほうそう、痘瘡、天然痘)は、種痘が行き渡る明治時代中頃まで、千数百年にわたって日本人を苦しめた伝染病だ。記録によれば、奈良時代には慢性的に流行し、身分の高低、貧富の差というよりは、もっと泥縄式のあんばいにて、人々を襲い続けた。かかると、ほとんどが死を身近に感じたのではないたろうか。運良く死を免れても、高熱によって失明したり、深刻な後遺症が生じたりして、疱瘡が個人の人生に与えた影響の大きさはどれほどのものだったのか、計り知れない。
 これを裏付ける史料としては、「続日本紀」に、こうある。

・「 (735年)8月12日、勅して曰はく、如聞らく、比日、大宰府に疫に死ぬる者多し、ときく。疫気を救ひ療して、以って民の命を済はむと思欲ふ、とのたまふ・・(巻十二、天平七年八月)。


・ (735年)11月21日、是の歳、年頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、天然痘(俗曰裳瘡)を患む。夭くして死ぬる者多し(巻十二、天平七年十一月)。


・ (737年)4月17日、参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)4月19日、大宰の管内の諸国、疫瘡時行りて百姓多く死ぬ。詔して幣を部内の諸社に奉りて祈み祷らしめたまふ。また、貧疫の家を賑恤し、并せて湯薬を給ひて療さしむ(巻十二、天平九年四月)。

・ (737年)5月1日、日有蝕之。僧六百人を請ひて、宮中に大般若経を読ましむ(巻十二、天平九年五月)。

・ (737年)6月1日、廃朝す。百官の官人、疫に患へるを以ってなり(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)6月10日、散位従四位下大宅朝臣大国卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月11日、大宰大貳従四位下小野朝臣老卒(巻十二、天平九年六月)。


 ・「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」 

・ (737年)6月18日、散位正四位下長田王卒(巻十二、天平九年六月)。

・ (737年)6月23日、中納言正三位多治比真人県守薨。左大臣正二位嶋之子也(巻十二、天平九年六月)。


・ (737年)7月5日、賑給大倭。伊豆。若狹三国飢疫百姓。散位従四位下大野王卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月10日、賑給伊賀。駿河。長門三国疫飢之民(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月13日、参議兵部卿従三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月17日、散位従四位下百済王郎虞卒(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)7月25日、勅遣左大弁従三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人。就右大臣第。授正一位拝左大臣。即日薨。遣従四位下中臣朝臣名代等監護喪事。所須官給。武智麻呂贈太政大臣不比等之第一子也(巻十二、天平九年七月)。

・ (737年)8月1日、中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐為卒(巻十二、天平九年八月)。

・ (737年)8月5日、参議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也(巻十二、天平九年八月)。


・ (737年)12月27日、是の年の春、疫瘡大きに発る。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天下の百姓相継ぎて没死ぬること、勝げて計ふべからず。近き代より以来、これ有らず(巻十二、天平九年十二月)。」

🔺🔺🔺

 これら一連の記述(735~737)の解釈としては、まずは、聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(701-756)においては、この伝染病は、「豌豆瘡(「わんずかさ」)と呼ばれていたという。
 そのきっかけは、735年(天平7年)「この年、凶作、豌豆瘡が流行し、死者多数、遣唐使の多治多比広成が帰国し、節刀(天皇から下賜された大刀)を返上する」とあることから、発症地は大宰府管内(対外窓口)と見ていた。そうであるなら、いわば当時の外界との接点・関わりというか、遣唐使船、新羅船の渡来と符合することから唐か新羅伝来の可能性が高くなろう。
 その広がり方は、九州から西日本へ、さらに畿内にかけて天然大流行になっていく。日本史研究者ウィリアム・ウェイン・ファリスが、正倉院の宝物に含まれる「正倉院文書」に残されている古代律令制下の「正税帳」すなわち出納帳を利用し、算出した推計(1985)による天然痘死亡者は、総人口の25~35%に達していたという。そうなると、100万~150万人がかかる感染症で死亡したという。
 あわせて、当時の平城京において政権を担当していた藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子(藤原4兄弟)が相次いで罹患し、死亡したとされる。

 ここにいう藤原四兄弟とは、藤原不比等の子である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)。聖武天皇の后(きさき)となった光明皇后の兄たちをいい、737(天平9年)に彼らは、次々に亡くなった。その後は、房前の子孫の北家が藤原氏の嫡流となっていく。

 なお、736年の記述にないのはわからない、ひょっとしたら、余りの政権の中核にいた有力者が亡くなり、朝廷政治は大混乱した。この大流行は738年(天平10年)にほぼ終息したのではないかと考えられているものの、当時の日本の政治・経済両面、宗教面に甚大な影響を与えたであろうことは、想像に難くない。

(続く)


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♦️222の4『自然と人間の歴史・世界篇』近代地質学の確立(ハットン、18世紀)

2021-06-06 21:30:55 | Weblog
222の4『自然と人間の歴史・世界篇』近代地質学の確立(ハットン、18世紀)


 ジェームズ・ハットン(1726~1797)は、イギリスの化学者にして、地質学者だ。


 幼くして父を失う、エディンバラ大学卒業後、法律事務所に勤める。まもなく同大学に戻り学び直す。その後はパリ、ライデン各大学で医学と化学を学ぶ。
 1749年には、医学の学位を取得する。塩化アンモニウムの製造工場を建てる。それらを務めながらも、次第に岩石学、鉱物学への関心を深めていく。


 イギリスのみならず、ヨーロッパ各地の地質調査を行う。1それらを踏まえ、地下の熱と圧力により地表ないしその近くの地層の変化が起きるという火成説を唱え、天変地異説や、地球上の岩石はすべて海からの沈殿物からできているとする水成説を批判する。そのあたりを盛り込んだ主著としては、「地球の理論』(Theory of Earth 、1795)が 有名だ。


 実地調査に明け暮れるうち、後に「ハットンの不整合」と呼ばれる地層(いわゆる露頭)を、スコットランドの南東部エディンバラ周辺の海岸線、シッカーポイントで発見する。
 そこでは、下位には垂直にそそり立つのが約4億2500万年前のシルル紀グレイワッケ砂岩層が見られる。そしてその上に、緩い傾斜でもって重なっているのが約3億4500万年前のテボン紀古赤色砂岩層がのっかかる形となっている。


 また、火成論者を主張していくうちには、18世紀中頃まで幅をきかせていた自然哲学というか、当時の宗教的世界観と対立していく。こちらは、旧来からの「地球年齢6000年説」などよりも地球の年齢が非常に古いことを示し、地質学が従来のキリスト教的「若い地球」観に代わる新しい地球像をいう。


(続く)

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♦️361の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』地球の気候変動(ミランコビッチ理論、1920)

2021-06-06 10:12:32 | Weblog
361の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』地球の気候変動(ミランコビッチ理論、1920)

 ミルティン・ミランコビッチ(1879~1958)は、数学者にして、地球物理学者だ。当時のセルビアの生まれ、8歳で父を失い、17歳の時一家はウィーンに引っ越す。

 地球の気候が周期的に変化する、その背景には何があるのだろうかと考えた。そして数学者らしくというか、綿密な研究を積み上げて、というのは、約2万年から約40万年をかけての地球軌道の変化を繰り返すという説を唱えるに至る。
 
 もう少しいうと、 (1) 地球の公転軌道は離心率が円(0)から楕円(0.005~0.06)へと約 10万年と約40万年の周期で変わる。それというのも、軌道が真円に近ければ近日点と遠日点の差は小さい。反対に離心率が1に近いほど、近日点と遠日点の差は大きくなる。

 (2) 地軸の傾斜角は22.1°(度)から24.5°の間を約4.1万年の周期で変化する。それの理屈については、地球儀を見ると、軸が傾いているのがわかろう。さらに視野を広げてのこの角度は、公転軌道面(黄道面)に対する自転軸の傾きを示している。もし、この傾きがなければ(黄道に対して垂直であれば)、一年を通じて太陽の南中高度は変化しない、つまり季節の変化がないことになろう。反対に、かかる角度が完全に横倒しであれば、どの地域も一年のうち半年は昼だけ、残りの半年は夜だけになってしまうだろう。

 その(3) としては、地球自転の歳差運動というのがあり(地球が、完全な球体ではなく、赤道方向が南北方向よりも大きい、みかんのような形をしているため)、これによって各季節の地球と太陽との間の距離(いわゆる近日点)は約1.9万年と約2.3万年の周期で変わるという。というのは、回転している物体の回転が弱まると軸が傾く。しかして、傾いた軸は、円形を描きながらゆっくりと、首を振るように回転する様を歳差といい、コマを回してみると、グルーリ、グルーリとなって、いくではないか。大きなものては、地球の自転運動にも歳差がある訳であり、現在のところ、この自転軸が一回転する周期は2.3万年だという。

 すなわち、離心率に地軸の傾き、それに歳差運動という地球軌道の 3要素の長周期変動によって、その時代の北半球の夏の太陽放射量が決まるのだという。ひいては、そのことにより、いつの頃からか氷河期の区割りの中での、氷期と間氷期が繰り返されるというのだ。

 ちなみに、ミランコビッチは、この自説を裏付けるのに、ドイツの気象学者ウラジミール・ケッペンやウェゲナーとも何かしら連絡していたようだ。例えば、1922年秋にケッペンからの手紙において、ケッペンがミランコビッチに、自身の手による13万年間の日射量復元カーブを60万年間に拡大することを依頼していたという。
 そういう意味合いからは、ミランコビッチの天文学的要因を掲げての気候変動説は、隣り合わせで地球気象に関係して研究していた他の学者たちとの間で、成長していったといえなくもないようだ。(その辺り、詳細には、横山祐典「地球46億年気候大変動ー炭素循環で読み解く、地球気候の過去・現在・未来」講談社ブルーバックス、2018など)

(続く)

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◻️◻️341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945 の総論)

2021-06-05 22:04:34 | Weblog
341の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦争体制はやがて崩壊へ(1941~1945
の総論)


 1941年12月8日には、ハワイへの空襲があった。宣戦布告の国際的慣わしだが、何かの手違いからなのか、その通告がアメリカ側に届いたのは、ゼロ戦の編隊列が、真珠湾(パール・ハーバー)にいるアメリカ軍に攻撃を開始した後のことであったという。
 しかして、これを先導したのは、一体誰であったのだろうかという話になると、今でも、かなりの日本人は、口が重たくなってくるのではないだろうか。とりあえず、ここでは、外国人による一説を手短かに紹介しておこう。

 「官権力は荒々しい力ともなりうる。ときにはきわめて危険なものになる。この抑制されない官権力の典型例が、軍官僚の仕組んだ真珠湾攻撃だ。責任ある政府の指導者ならば、当時、日本の十倍との工業力をもっていた国アメリカを攻撃するようなことはなかっただろう。日本国民が慈悲深いはずの支配者たちに裏切られたという点できわめて悲劇的だった。」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著、篠原勝訳「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社、1994)

 続いての12月10日には、日本軍が、フィリピンに上陸する。12月11日には、グアムを占領する。12月23日には、ウェーク島を占領する。12月25日には、香港を占領する。

 1942年1月には、マニラを占領する。同月、長沙を占領する。2月には、シンガポールを占領する。2月には、スラバヤ沖海戦。3月には、バタビヤ海戦、同月占領する。3月、ラングーンを占領する。


 4月、アメリカ(艦載)機が、東京を初めて空襲する。4月には、マンダレー(ビルマ)を占領した、これにより南方作戦は一段落。5月には、コレヒドール(フィリピン)を基地とするアメリカが降伏する。同月、珊瑚海(さんごかい)海戦が戦われる。


 そして6月には、ミッドウェー島付近で大規模な海戦があり、日本の海軍が大損害を受ける。同月、アッツ島にアメリカ軍ぐ上陸する。8月には、アメリカ軍を中心とする連合軍をが、ガダルカナル島に上陸し、第一次から第三次までソロモン諸島付近で海戦が戦われる。

 1943年になると、日本軍の南方部隊の崩壊が始まる。4月には、山本五十六連合艦隊指令長官の乗った飛行機が撃墜され、戦死する。5月になると、アッツ島の日本軍が全滅する。6月には、学徒戦時動員体制確立方針が決定となる。

 7月には、キスカ島撤退作戦が実行される。9月には、御前会議において、「今後とるべき戦争指導大綱(「絶対防衛網」確保に向けたもの)」を決定する。要するに、これからは勝利はもうおぼつかない。海外拠点の多くを失い、守りの方に目をくばらなければならなくなった訳だ。

 それでも戦いを続けるのか、それに関わる選択が話されてもおかしくはあるまい。果たして、その時の御前会議で天皇はどのように発言したのだろうかは、多くの国民が本来なら聞きたいところであったろう。だが、政府の発表や国内のマスコミなどは、戦況の不利については国民に伝えなかった。

 11月には、マキン・タラワ島の日本軍が全滅する。11~12月には、ブーゲン・ルオット沖で海空戦がある。そしての12月には、学徒出陣となる。

 1944年2月には、クエゼリン・ルオットの日本軍が全滅する。同月、アメリカ軍が、トラック島を空爆し、日本軍は大損害を受ける。
 それでもの2月から、日本軍はインパール作戦に打って出て、7月まで行う。3月には、古賀連合艦隊指令長官が戦死する。

 そして迎えた6月には、マリアナ群島にて激戦の方向。アメリカ軍がサイパン島に上陸する。同月には、マリアナ沖で海戦がある。そして迎えた7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する、そのことは日本にとって大打撃となったことは、想像に難くない。

 折しもの1944年(昭和19年)3月から6月にかけては、あのインパールての日本軍の進軍があったものの、その末路としての悲惨な退却につながっていく。「インパール作戦」と銘打ったこの日本軍の作戦は、ビルマ(現在ノ、ミャンマー)西部、イワラジ川、チンドゥン川沿いに遡り、国境をこえてインド・マニプル州の都インパールを目指して侵攻した。
 ところが、である、それは、補給を無視した軍事作戦にて、無謀な突っ込みであった、というほかはあるまい。おまけに、いつ病人か出てもおかしくない環境下での行軍であり、やがて撤退を余儀なくされる。
かくて、帝国陸軍第十五軍の三個師団は、約3万人との戦死者と戦傷病者約4万2千人を出して、文字通り壊滅した。敗残して捕虜となる道ではほとんどなくて、敗兵撤退、退却の道なき道すがらは、「白骨街道」になってしまう。しかも軍部は、国民に、この大敗北をひたすらに隠すのであった。

 それというのは、これにて、「南方占領地からの物資補給は事実上断絶し、物動計画も、1944年第3四半期以降は崩壊するにいたった」(安藤良雄「現代日本経済講義史」第二版、東京大学出版会、1963)という。安藤氏によりては、続けては、こうある。

 「アメリカの海上封鎖、とくに潜水艦作戦のため、中国大陸からの輸送、朝鮮からの輸送も不可能にな、さらに機雷投下のため本土沿岸航路さえ混乱におちいった。
 一方、マリアナを基地とする対日戦略爆撃の開始、さらには機動部隊の鑑載機の攻撃、艦砲射撃のため、軍需工場・交通機関が大損害を受け、一般都市も焼夷弾爆撃によって大きな損害をこうむるにいたった。」(同)

 これらをもって、戦争経済は崩壊へ向かう。それを受けてか、7月17日には海軍大臣が更迭される、それもつかの間の翌7月18日には東条内閣が総辞職し、小磯・米内協力内閣となる。

 それからも、8月には、テニアン・グアム島の日本軍が全滅する。10月には、台湾沖で空中戦が戦われる。10月には、兵役年齢の引き下げを実施する。

 10月には、アメリカ軍がレイテ島に上陸する。同月、神風特攻隊による攻撃が開始される、帰ることを予定しない出撃として。11月には、マリアナ基地よりのB29の日本基地への来襲が始まる。

 明けて1945年1月には、アメリカ軍がルソン島に上陸する。最高戦争指導会議が、「今後とるべき戦争指導大綱」、それに「決戦非常措置要綱」を決定する。本土決戦までを想定し始めてのことであったのは、否めない。


 ちなみに、この年の2月にあった近衛文麿が天皇に提出した「上奏文」にまつわる話を、女性史研究で知られる鈴木裕子氏は、こう解説しておられる。

 「天皇家と藤原鎌足以来、姻戚関係が強く、もっとも親近感のあった元首相で公爵の近衛文麿は、45年2月14日、敗戦は必死であり、共産革命か起こる以前に手を打つ必要を天皇に説いた。近衛はのちの首相吉田茂と協議のうえ作成した長文の「上奏文」をもとに「戦争終結」を強調した。

 「昭和天皇実録 第九」(以下「実録」)によれば、侍立の内大臣木戸幸一の要旨によれば次の通りである。要約抜粋引用する(原文片仮名)。

 「最悪の事態に至ることは国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の興論は今日のところまだ国体の変更とまでは進まず、国体護持の立場より憂うべきは、最悪なる事態よりも之に伴って起こることあるべき共産革命なり。(中略)「翻って国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々に具備せられ、・・・生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親近ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂(いわゆる)新官僚の運動」「之を背後より操る左翼分子の暗躍なり」とし、「勝利の見込なき戦争を之以上継続することは全く共産党の手に乗るもの」「国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を構ずべき」と進言した(「実録」45年2月14日条)。 近衛のこの上奏に対し、天皇は「今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難」と口吻(こうふん)を洩らした(同右)。もしこの時仮に近衛の上奏を受け、「終戦」に努力していれば、あの凄絶な沖縄戦はじめ東京大空襲など各都市へのB29機の焼夷弾投下による莫大な人命の損失をも免れていたであろう。」(鈴木裕子「続・天皇家の女たち」)


 同じ2月には、米鑑載機による本土爆撃が開始される。3月になると、B29による東京下町地区への無差別空襲が始まる。以後、全国的な規模で、焼夷弾攻撃が始まる。3月には、硫黄島の日本軍が全滅する。

 3月には、軍事特別措置法が制定されるとともに、決戦教育措置要領、さらに国民義勇隊設置が決定される。

 4月には、アメリカが、沖縄本島に上陸する。同月、アメリカの要請を受けたソ連が、連合国としての立場から、日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告してくる。

 4月5日には、小磯内閣が、総辞職する。後継は、鈴木内閣。5月には、最高戦争指導会議幹部が、ソ連仲介による終戦申し合わせを行った由、以後、終戦工作が活発化していく、しかしながら、時既に遅しの状況。

 6月には、御前会議にて、本土決戦断行の「戦争指導要領」を決定し、いわば、「一億玉砕」の覚悟を国民に強いようとしたのであろうか。

  同月、昭和天皇が、終戦措置を指示したというのだが、もはや、連合国に対し降伏を急ぐべし、とはならなかった。同月、日本政府はなおも戦争を継続しようとしてか、戦時緊急措置法、義勇兵役法、国民義勇戦闘隊統率令を公布する。あわせて、決戦生産体制確立要綱を決定する。

 同6月中には、沖縄の日本軍が全滅、これには民間人多数の死者を伴う。多くの民間人に死が強いられた。同月、昭和天皇が、近衛文麿に訪ソ連を指示する。同月、国内戦場化具体措置を閣議決定する。

 7月からは、米鑑隊による日本本土艦砲射撃が本格化する。主食配給が10%減となる。同月、戦時農業団令が出される。

 同7月17日には、米英ソ連首脳によるポツダム会談が開会され、同7月26日には、対日ポツダム宣言が発表される。同宣言は、日本に対し無条件降伏を求める。
 
 8月6には広島に、9日には長崎に原爆が投下される。8月10日には、御前会議にて、ポツダム宣言を受け入れることに決定する。その際、天皇制を中心とする国体護持が条件であるとして、連合国側に示される。国民の命より天皇制の護持の方が先であったことは、疑うべくもなかろう。同月14日には、これがアメリカに受け入れられたことにより、無条件降伏を決定、連合国側に通告する。
 
 翌8月15日、昭和天皇は、国民向けに「終戦の詔」を発布、自身が放送する。それは、相変わらず国民を下に見た上での話であった。鈴木内閣は総辞職するも、戦争終結に反対の乱が各地で起こる、しかし、クーデターなどは起こらなかった。日本の敗戦は、ここに確定する。


 なお、先ほど引用した鈴木前掲論文において、彼女は、自身の問題意識から、その末尾を天皇制の将来についての次のように結んでいるのであって、ここに紹介しておこう。

 「昭和天皇その人の意識はどこまで変わったのか、依然として疑問が残るが、天皇家が生き延びるための新たな「演出」工作が図られ、存続を可能ならしめたわけである。その息子の明仁・美智子天皇制に象徴されるように、「愛される天皇・天皇家」が誕生し、今日に至っているが、法の下の平等・男女平等を謳(うた)った日本国憲法との矛盾は明らかであろう。
 筆者としては、天皇家の人びとが「ただの市民」になることを願い、戦前戦後の天皇・天皇制へのタブーなき真実の歴史が多くの人びとに理解・共有されることを願うばかりである。」(同)



(続く)

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◻️◻️24『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一(1392)後)

2021-06-05 09:57:09 | Weblog
◻️◻️24『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一(1392)後)


 政治状況から始めると、例えば、この時期の備中国は、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏などへと、守護が慌ただしく交代していく。

 具体的には、1375年(永和元年)には、渋川満頼がこの地域の守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)からは、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、その後には川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下となる。
 かたや後者の細川氏の側の細川頼之は、1392年(明徳3年)には、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、かかる3つの郡は、備中守護の統治下に置かれるも、同年中には、哲多郡については頼之の子頼元の支配となる。

 1393年(明徳4年)になると、大きな変化、すなわち渋川満頼は、室町から備中守護を罷免されてしまう。その後釜の守護職には、細川頼元の弟の満之がなり、さらに頼元の子孫が世襲していくのだが、こちらも、次第にだんだんに現地での支配力が低下していく。

 かくて、備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が知られているのだが、こみらが力を伸していく。やがて、守護やその被官は国内の寺社の造営や重要な行事を取り仕切るようになる。
 さらに、かれらにより、荘園・公領が押領され、被官や国人衆(こうじんしゅう)の実質的所領化していく。かくて、それらの具体像をもう少しわけいって見るには、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などの振る舞いかどうであるかが、「繋ぎ目」として重要になっていく。

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 室町時代における地方の土地の所有関係は、なかなかに複雑になってきていた。その一つとして、先に取り上げた新見荘のその後を語ろう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。
 そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになったのである。
 しかしながら、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状のとっかかりには、こう記されてあった。

 「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候ハゝ御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくてハ一向御○○○やう歎入候事」

 その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
 そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見ならびに納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、網野喜彦氏の紹介にはこうある。

 「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
 それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)

 なお後日談だが、やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。


🔺🔺🔺

 今ひとつの例として、室町幕府が一応の安定期に入った(南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、次に紹介するように、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。

 「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)

 ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。

 これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。ありていにいうと、守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。

その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~1592年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

(続く)

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♥️読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

2021-06-04 21:09:23 | Weblog
読者の皆様へ、お知らせ(2021.6.14、丸尾泰司)

 いつもありがとうございます。おかげで、このブログは、なんとか続いています。
 項目数は2300を超え、これまで新しい項目を作っては加え、前のものに改訂を加えたりしてきました。
 構成は、「自然と人間の歴史・世界篇」、「自然と人間の歴史・日本篇」、「岡山の今昔」、そして「自伝」とありまして、都合4つの物語の寄せ集めです。
 これらのうち、前の方の3つは、歴史、しかも過去を尋ねて、というばかりでなく、現在そして未来をなにがしか展望する(言うなれば「論語」でいうところの「新しく知る」)という課題を背負わせているところです。

 例えていうと、「岡山の今昔」は項目数がかなり出揃ってきていて、これからは、内容や体裁(誤字脱字の訂正など)を整えることに主眼をおくつもりでおります。合わせてその中では、これからの岡山を展望する話題も、積極的に取り上げていくつもりでおります。
 またこれに付随して、本ブログとは別に「岡山の歴史と岡山人」を立ち上げています。こちらは、郷土の歴史の流れにできるだけ留めて無難なものに改善を重ねることにより、今は漠然ながら、「将来的になんらかの形で出版できたらいいな」(夢)、と考えているところです。
 
 もちろん、我が身を見ると、微力な上にも微力です。この分野での学力たるや、いまだに、この分野で取るにも足りない存在なのかもしれません。
 そういうことで、今後とも頑張っていきますので、ご支援よろしくお願いいたします。


 

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♦️966『自然と人間の歴史・世界篇』ミャンマーのクーデターで軍事政権(~2021)

2021-06-03 08:32:55 | Weblog
966『自然と人間の歴史・世界篇』ミャンマーのクーデターで軍事政権(~2021)

 この国の政治状況を、少し前から拾うと、およそ次のようであった。 

 1948年1月には、イギリスから独立する。これより前の1940年においては、当時ファシズム国家の日本が、「大東亜共栄圏」構築の一環たとして、この地に食指を動かしていた。対米英戦争が始まると、日本が仕立てたビルマ独立軍とともに日本軍がこの地に進駐し、「独立国ビルマ」を承認し、政権を発足させる。
 日本側の当面の政治スタンスとしては、完全独立をいう勢力を首相に据えることをせず、そのため地元の最大勢力のタキン党は、これを不満として反日の姿勢に転換し、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー氏の父親)らは「AFO(反ファッショ)機構」を結成し、抗日運動を展開する。
 日本の敗戦後、AFOは、ビルマを完全独立、人民政府樹立を目指して、ビルマをイギリス連邦内にとどめようとするイギリスと渡り合う。AFOは、「AFPFL(反ファシスト人民自由連盟)」と改め、アウン・サンは「人民義勇団」を組織する。
 それから暫くの間(~1988)の政治経済状況について、説明している数少ない文献として、塚本健氏の論考「ビルマの政治経済」があり、ここでその一節から引用させてもらおう。

 「9月には警官と公務員が政治ゼネストに入った。AFPFLメンバーは、それまでビルマ行政評議会閣僚から排除されていたが、これ以後、入閣し、閣僚ポストの過半数を占めた。AFPFL・イギリス間で、ビルマ独立についての協定がむすばれた。ところがアウン・サン暫定政府閣僚5人は半年後の7月、親英右派分子に暗殺された。」(塚本健「ビルマの政治経済」、社会主義協会「社会主義」1995.9)

 ここで話を戻して、イギリスから独立してからのビルマ連邦共和国だが、1958年9月には、軍事クーデターが起こる。これには、初代ウーヌー政権が、最初国有化政策をとったものの、1949年7月にはこの政策を停止、外資導入・合弁企業設立へと動いたものの、少数民族のカレン族、共産党らが反対するなど、政情は安定しなかった。

 その後、1960年に行われた総選挙で、ウーヌー派が勝利し、党首て首相のなったウーヌーは、仏教を国教とする、ビルマ型の社会主義を唱える。しかし、1962年3月には、再びネ・ウィン参謀総長が指導する国軍が、軍事クーデターに打って出て、国軍が政治の全権を握る。

 かくて、革命評議会政権与党としてのBSPP(ビルマ社会主義計画党が結成される。そればかりか、同党以外のすべての政党が解散された。

 それからの約12年間のネ・ウィン軍事独裁政権のあとの1973年12月、民政移管を目指しての、憲法制定についての国民投票が行われる。翌1974年1月には、新憲法にもとづくビルマ連邦社会社会共和国が成立する。 

 1988年には、反政府の学生デモが起こり、ネ・ウィン党議長(ビルマ社会主義計画党)と、サン・ユ大統領が辞任する。後任のた大統領セイン・ウインは、戒厳令を布告し、軍にデモを弾圧したものの、鎮圧に失敗し、在任17日で辞任する。
 政局は、文民大統領のマウン・マウンが登場して、戒厳令を解除し、複数政党制度を提案する。しかし、学生側も含めて、これらのグループには政権を担うまでの実力はなく、結局、ソー・マウン大将指導の軍が、市民運動を鎮圧して、政権を掌握する。

 この軍事政権は、SLORC(国家法秩序評議会)を設置するとともに、国名をビルマ連邦社会主義共和国からビルマ連邦に変える。

 これに合わせる形で、同し1988年、アウン・サン・スー・チー氏らがNLD(国民民主連盟)を結成する。彼女らは、ソー・マウン軍政批判を展開していく。

  1989年になると、6月に軍事政権は、国名をビルマ連邦からミャンマーへ、首都ラングーンの名をヤンゴンに変える。翌7月には、国家防御法を使って、アウン・サン・スー・チー氏を自宅軟禁し、NLD党首のテイン・ウーを逮捕する。

 それでも、1990年の総選挙でNLDが勝利する。ちなみに、この選挙には、NUP(国民統一党、前のビルマ社会主義計画党)、NLDをはじめ93もの政党が参加していた。このままでは危なくなると判断したのであろう、軍事政権側は、政権委譲を拒否する。

 2003年には、軍政側が「民政移管計画」を発表する。
 2008年には、新憲法が成立、発布される。この中では、国会の4分の1が軍人枠になる。

 2011年には、軍事政権からの民政移管完了により大統領に就任した軍人出身のティン・セインが、国内の平和を実現すべく、少数民族武装勢力と和平への道を探る。

2012年4月には、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏が党首のNLDが45議席中43議席を獲得して圧勝を果たす。
 2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が起こる。


 2015年10月には、ミャンマー政府は、KNU(カレン民族同盟)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)が成る。


 2015年11月の総選挙で、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが大勝する。同じ2015年には、国軍出身のティンセイン軍事政権下で、カレン民族同盟、パオ民族解放戦線なと8組織が、全国規模での停戦協定に署名する。
 2016年3月には、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足する。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任し、この新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展を打ち出す。
 同じ2016年には、アンサー・スーチー氏が率いるNLD(国民民主連盟)政権下において、初の「連邦和平会議」が開かれる。その場で、和平に向けた協議が始まる。

 2017年8月には、ラカイン州北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生する。その後の情勢不安定化により、70万人以上の避難民がバングラデシュに流出したという。

 2018年には、新モン党など2政治組織が、停戦協定に署名したことで、停戦協定の署名に参加しているのは計10組織になる。

 2020年8月には、第4回連邦和平会議か開催される。同年11月には、総選挙が行われる。ラカイン州などの一部地域では、治安の悪化を理由に選挙を中止する。
 この総選挙では、アウン・サン・スー・チー議長の率いるNLDが勝利する。ちなみに、ミャンマー連邦議会・上院(定数224)の構成としては、NLD(国民民主連盟)が138議席、軍人枠が56議席、USDP(連邦団結発展党)が7議席、その他の順。同・下院(定数440)の構成は、NLD(国民民主連盟)が258議席、軍人枠が110議席、USDP(連邦団結発展党)が26議席、その他の順。(2021年5月時点)


 2021年2月1日に、国軍によるクーデターがあり、国軍が全権を掌握する。スーチー氏らを拘束し「非常事態宣言」を発する。
2日には、国軍のミン・アウン・フライン総司令官を議長とする国家統治評議会の設立を発表する。
 2月3日には、市民らが街頭に出て、「不服従運動」を始める。同日には、無線機の違法輸入容疑などで警察当局がスーチー氏を訴追する。5日には、民主派が、CRPH(連邦議会代表委員会)を設立する。
 2月6日から10日にかけては、大規模な抗議運動としてのデモになっていく、しかも全国にデモが広まる。
 2月11日には、アメリカがミャンマー国軍幹部らを制裁の対象に指名する。
 2月19日には、首都ネピドーで初めての犠牲者が出る、9日に国軍の兵士に銃撃された女性が死亡したのだ。
 2月22日には、全国でゼネスト、100万人超のデモが起こる。

 3月2日には、ASEAN(東南アジア諸国連合)が、オンライン形式で非公式の臨時外相会議を開き、ミャンマー問題を議論する。同3日には、国外から情報を発信している国連大使(市民側)によると、全国各地において、国軍がデモ隊に発砲し、38人が死亡した。

 3月8日には、地元メディア5社の免許が取り消される。3月14日には、最大都市ヤンゴンの一部に戒厳令が発動される。

 3月22日には、EU(欧州連合)が、ミャンマー国軍幹部ら11人に制裁を発動する。3月23日には、第二の都市マンダレーで7歳の少女が国軍の兵士に銃撃されて死亡した。

 2021年3月23日には、国軍に対抗する形で活動するCRPH(連邦議会代表委員会)が副大統領代行に任命したマンウィンカインタン氏は、フェイスブックを通じて演説し、少数民族に協力を求める。CRPHは、5日に発表した政治方針に、少数民族側が長年要求してきた自治権を実現することを盛り込む。
 一方、国軍側も内戦になってはたまらないということであろうか、3月11日、ラカイン州の武装組織「アラカン軍」のテロ組織指定を解除する。国軍はまた、ミンアウンフライン国軍最高司令官を長とする意思決定機関「連邦行政評議会」のメンバーに、少数民族政党らの幹部を加える。

 3月24日には、人権団体「政治犯支援協会」の同日までの集計によると、286人が殺害され、2906人が国軍や警察に拘束された。国軍記念日の3月27日には、国軍が軍事パレードが実施され、抗議デモ弾圧で114人が死亡したという。


 3月31日には、NLD側が、軍事政権下で制定された現行憲法の廃止を宣言する。これを行ったのは、NLD当選議員らで組織するCRPH(連邦議会代表委員会)とされ、、国軍によるクーデター後、独自に「閣僚代行」を任命するなどして、いわば「地下臨時政府」「亡命臨時政府」とでも形容したらよいのだろうか、そうした抵抗の動きで国軍に対抗している。
 一方、流血が続いている中では、やがてはNLD派を含めての市民側は、中東での「自由シリア」のように武力闘争に転じていくこともあるかも知れないと。そうなると、国軍に反発する少数民族勢力を巻き込んでの内戦は避けられまい、という見方も成り立つ展開となろう。
 そこで、まずもってこれをやめさせることが和平への近道なのだろうが、現時点の双方とも話し合いのテーブルにつく動きにはなっていない。一方、国連はといえば、国軍への制裁をどうするかを巡り、まとまらない。法的拘束力を持つ決議の採択に積極的なアメリカなどと、「一方的に圧力をかけ、制裁や強制措置を求めることは緊張と対立を、悪化させ、状況をさらに複雑にするだけで、まったく建設的でない」とする中国などとの間で、身動きがとれていない。

 4月9日には、中部バゴーで武力弾圧があり、少なくとも80人が死亡したという。同16日には、CRPHが挙国一致内閣を発足させる。同18日には、警察当局が、ヤンゴンで、日本人のフリージャーナリスト北角裕樹氏を逮捕する。同24日には、インドネシアの首都ジャカルタでASEAN臨時首脳会議が開かれ、暴力の中止や平和解決に向けた5項目で合意したとの議長声明が発表される。

(続く)

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◻️◻️57『岡山の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

2021-06-03 07:47:54 | Weblog
57『岡山の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

 その頃までの明治政府の主要ポストは、薩長土肥の出身者がほぼ独占していた。そこでこれによる専制政治を批判するとともに、早期の国会開設、地租軽減、政治的自由の拡張などを求めて国民的政治運動が持ち上がる。 

 ゆえに、1874年(明治7年))月12日には、板垣退助ら民選議員が、当時の左院(当時の立法機関)民選議員設立建白書を提出する。これに始まる国会開設を初めとする民主化要求を掲げた運動が全国的にひろがっていく。1880年(明治13年)には、国会期成同盟が成立する。

 当時の板垣(1881年には自由党を組織)らの念頭にあったのは、いわゆる豪農や豪商、元士族の富裕層を中心に構成される議会であった。元士族においては、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争での敗北以来、その没落が決定的になっていく。

 この運動は、時を経るに従い、新興ブルジヨアジー(産業資本家階級)や一般農民の一部を巻き込んで、大隈重信(1882年に立憲改進党を組織)らの自由主義的な運動にも発展していく。やがて1890年の国会開設に繋がるこうした一連の運動の流れを、「自由民権運動」と呼ぶ。

 1876年(明治9年)、北条県は合併で岡山県となったものの、県知事の権限が強く、政府の法律や規則などに縛られ、国への政治参加も限られていた。全国の自由民権運動の高揚に伴って、人民の政治的権利と人々の生活向上の願いが聞き入れられない状況が露わとなるに従い、岡山でも早期国会開設請願の署名運動などが進められていく。
 その岡山での自由民権運動の盛り上がりを伝えるものに、大衆演説会があり、1880年)明治13年)11月22日付け『岡山新聞』に、こうある。

 「作州津山辺では、市中を巡航せらるる一本筋の巡査のうちに、(中略)市中にて国会開設のことや、新聞雑誌の話などをしている者があると、これこれ其の方共は今何を話していたか、けしからぬ。隠さずと申し上げよ、とて、其の話していた事柄を聞糾(ききただ)し、住所姓名までたづねて手帳にひかえらるる」(『津山市史』第六巻)。

 続いて、県北の運動のおおよその流れを紹介すると、1878年(明治11年)には、美作の大庄屋・中庄屋級の豪農21名が共之社(きょうししゃ)を結成する。
 1880年(明治13年)には、美作三郡郷党親睦会(ごうとうしんぼくかい)が結成され、こちらは津山近辺3郡の200余名が集い、相互の助け合いから政治的な課題への取り組みを志向する。
 1881年(明治14年)になると、美作三郡郷党親睦会を背景に、美作同盟会が結成される。そして、第二期国会期成同盟に加藤平四郎を派遣する。

 1882年(明治15年)には、津山妙願寺において、第三3回美作親睦会が開催され、この席にて、美作でも自由党をつくることが決められ、自由党美作支部が結成される。

 1882年(明治15年)4月27日、津山の二階町で開かれた自由大親睦会という名目での集会が、時の集会条例に抵触するとして即刻解散の憂き目にあう。のみならず、これに参加していた自由党美作部の党員が警察に連行されたのを、目の当たりにした記者が伝えている(4月30日付け『山陽新聞』)。


 ともあれ、こうして岡山の地では自由を求める運動が、官憲の妨害に遭いながらも続けられていった。そして迎えた1890年(明治23年)7月の第1回の衆議院選挙で、岡山は7つの選挙区に分かれていた。
 美作でいうと、第六区からは立石岐(たていしちまた)、第七区からは加藤平四郎が当選した。

 同選挙後の9月には、立憲自由党が結成された。その旗印としては、皇室尊栄・民権拡張・内政簡略・対等条約・政党内閣実現などであった。翌1891年(明治24年)、立憲自由党は、岐阜で運動中に狙撃された、あの「板垣死すとも自由は死なず」で有名な板垣退助を総理とし、自由党と改称するに至る。
 1878年(明治11年)には、府県会規則が制定された。同時に、郡区町村編成法、地方税規則が制定された。これらにより選挙による地方議会が発足したのである。選挙のやり方は、記名投票にして、選挙権は満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者に与えられた。県議会議員選挙規則も定められ、その翌年に県議会の選挙が実施された。とはいえ、ここに女性の参政権はおろか、男性も一定以上の地租を定める者でなければ、政治に預かれない、次の仕組みとなっていた。

 「一、議員は郡区ごとに選挙で決める。
一、選挙人は、満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上を納めている者
一 被選挙人は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上を納めている者」(出所は、津山市史編さん委員会「津山市史」第六巻、明治時代)

 1900年(明治33年)、衆議院議員の選挙権は、その後、1900年(明治33年)に「直接国税10円以上の納税者」に改正され、有権者数はそれまでのほぼ2倍の98万人(2.2%)に拡大される。

(続く)

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◻️79の1の1『岡山の今昔』山陽道(備前焼、発祥の地)

2021-06-02 19:25:57 | Weblog
79の1の1『岡山の今昔』山陽道(備前焼、発祥の地)

 この地は、備前焼発生の地として全国に知られる。この焼き物は、「釉薬を掛けない焼き締め陶」として名高い。そもそも古代の焼き物といえば、あの怪しげな形と縄を巻き付けたような文様をした縄文土器が思い浮かんでくるではないか。たとえば、北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り土器の製作年代は、約九千年前にも遡るとも言われる。
 幾つかの本をめくってみるのだが、備前焼の発祥は、その流れとは異なるらしい。ある解説には、こうある。

 「備前焼の古窯跡の分布は、古墳時代以降の須恵器(すえき)の分布とは異なる。すでによく知られているように、邑久郡牛窓町から邑久町・長船町にかけては、古墳時代後半期以降の寒風古窯跡群をはじめ五○基以上の古窯跡が知られている。全国的に見ても、須恵器の一大産地であり、平安時代の『延喜式』にもびが摂津・和泉・美濃・播磨・讃岐の国々と共に、須恵器を上納する国の一つにあげられている。」(伊藤晃、上西節雄「焼締古陶の雄」、「日本陶磁全集10」中央公論社、1977)

 こちらの大方には、古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展したものが最初と推定されている。それならば、初めて窯がで焼かれてから千年の時が経っていることになるではないか。

 意外にも、この地域の焼物が有名になるのは、私たちの頭の中にイメージが出来上がっているあの「備前焼」としてというよりは、「瓦」(かわら)であった。1180年(治承4年)に遡る。その頃瓦づくりを行っていた地域としては、備前にとどまらず、そこから岡山にかけての地域に点在していたようである。この年、平清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼き討ち」によって焼かれた。

 この事態に、黒谷の源空(法然上人)に後白河法王より東大寺再興の院宣が下る。法然は、老齢を理由に門下の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推挙して、重源が再建費用を集める大勧進職(だいかんじんしき)に任命される。やがて東大寺の再建を始める。その造営費用に当てるため、備前と周防の2国を「造東大寺領」とした。
 その国税を再建費用にあてる「造営料国」(ぞうえいりょうごく)の一つとされたのだ。周防から材木を、備前と遠江から瓦を焼いて送った。屋根瓦は、東大寺領であった備前国の万富で9割以上が焼かれ、備前焼の近くや、吉井川河口の福岡を経由して舟で奈良へと運ばれた。残りの数パーセントが渥美の伊良湖で焼かれた。そして、9年後の1193年(建久4年)から東大寺再建が成った。

 この時の窯跡が遺跡に指定されていて、その中の代表的なものが万富(まんとみ、現在の岡山市東区瀬戸町万富)の東大寺瓦窯跡(とうだいじがようせき)とされる。この遺跡は、南北方向に延びた丘陵の西側斜面にあった。遺跡そのもののあった場所は現在、高さ2メートルほどの段差をもつ2面の平坦地(へいたんち)になっている。

 万富地域は、良質の粘土を産するほか、吉井川の水運を利用して資材や出来上がった製品の運搬にも便利であったろう。1979年(昭和54年)と2001年(平成13年)~2002(平成14年)、2005年(平成17年)に磁気探査(じきたんさ)と発掘調査(はっくつちょうさ)が行われた。上の平坦地で14基の瓦窯が見つかっている。

 なお、使用する土については、「備前市周辺の流紋岩類中には大規模な「ろう石鉱床」が形成され、それを原料とするセラミックス産業が盛んです。岡山特産品の備前焼を作成するための備前焼粘土は、備前市伊部(いんべ)周辺の流紋岩類が風化して生成した粘土が山ろくの(続く)」(野瀬重人編著、岡山県地学のガイド編集委員会編「改訂・岡山県地学のガイドー岡山県の地質とそのおいたち」)と記されているのが、参考になろう。

 このほかに、工房(こうぼう)や管理棟(かんりとう)の可能性がある竪穴遺構(たてあないこう)、礎石建物跡、暗渠排水施設なども見つかっている(この発掘の報告は、岡山県教育委員会編『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告三七、1980による。また当時の瓦窯模式図が、高橋慎一朗編『史跡で読む日本の歴史』第6巻「鎌倉の世界」吉川弘文館、2009、87ページに復元されている。)。

 私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられていた。それが、今から約800年前の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。須恵器(すえき)は、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)地方で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には備前焼として完成の度合いをつよめていく。

 しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。 
 やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。

(続く)

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♦️298の2『自然と人間の歴史・世界篇』熱力学のミクロ的立証(19世紀、ボルツマン)

2021-06-01 09:22:27 | Weblog
298の2『自然と人間の歴史・世界篇』熱力学のミクロ的立証(19世紀、ボルツマン)

 ルーヴィッヒ・ボルツマン(1844~1906)は、オーストリアの物理学者だ。
 帝室財務書記官の子としてウィーンに生まれる。少年期をウェルス・リンツで過ごす。
 ウィーン大学で物理学を学ぶ。1866年に同大学を卒業後、シュテファンのもとで助手となる。
 1868年には、グラーツ大学教授となる。その後、ハイデルベルク、次いでベルリンで客員教授として過ごす。
 1873年からは、ウィーン大学を皮切りに、グラーツ、ミュンヘン、ライプツィヒの各大学の教授を務める。

 その彼がもっとも力をいれたのは、熱力学であったろう、そんな中での、史上名高い「ボルツマンの二大偉業」の一番目は、エントロピー増大を分子・原子レベルで示した「H定理」と記される。
 二番目は、同様のレベルでエントロピーの統計力学的解釈を与えた「ボルツマンの原理」として残る。
 これら二つは、宇宙のエントロピー、すなわちエネルギーを質であらわした状態量は、最大値(この場合は質の劣化・乱れの度合い)に向かって増大する」との熱力学第二法則を記述したものだ。このことは、熱の形になったエネルギーは、電気などに比べて質が低く、仕事に変えて取り出すのがなかなかに難しいのが指摘されている。
 ちなみに、熱力学第一法則では、「宇宙のエネルギーは一定である」としている。もしくは、「エネルギーは、さまざまな形態に変化することはあっても、その総量はつねに一定である」とも言い慣わされているこの法則だが、例えば、こんな風に説明されている。

 「密閉されたピストン付きの容器を温めます(上図のイラスト)。すると、中に入っている気体分子の運動エネルギーが増し、その分、気体の温度が上昇します。さらに、温められた空気は膨張し、ピストンを押しだします(外部への仕事=外部にエネルギーを与えること)。熱力学第一法則によると、増加した気体分子の運動エネルギー(ΔU(デルタ))と、ピストンを押しだす際に外部にした仕事(W)の合計は、加えられた熱エネルギー(Q)の量と一致します。これが熱力学第一法則(Q=ΔU+W)です。」(雑誌「ニュートン」ニュートンプレス2018年12月号)


 この分野において最も流布されていることでは、分布関数の時間的変化を与えるボルツマン方程式を発表する。

S = k logeW

 ここにSはエントロピー、Wは「マクロ的な一つの状態に対応するミクロな配置の数」、そして比例定数kはボルツマン定数と呼ばれる。それぞれの意味合いについては、米沢富美子「人物で語る物理入門(上)」岩波新書、2005を推奨したい。

 これに示されるような分子運動論の下りでいうと、時代の先駆けゆえの周囲の無理解に悩んでいたという、加えて、論敵との応酬に疲れ果てしまう。
 つまるところ、原子の存在が実験的に証明される少し前、ボルツマンは自殺してしまう。そのおりの自らの思いは、どのようであったのだろうか、ウイーンにあるボルツマンの記念碑には、かかるボルツマンの原理が刻まれ、現代物理学への橋渡しを成し遂げた天才の、ゆるぎなき業績を讃えているとのこと。

 それまでの熱のマクロ的相互相互関係の究明、人名でいうとカルノー、ジュール、ケルビン、クラウジウスなどといった第一、第二世代の貢献の基礎の上に、原子や分子のレベルを明らかにしようと試みる。
 

(続く)

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