今日の朝日の朝刊。
コラム「折々のことば」で、評論家の大宅映子さんの言葉が取り上げられていた。
☆死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか。その根源的な理由を考えるのが、文学部というところです。
これに対して、鷲田清一氏は、このように解説している。
☆意表をつく表現だが、ほぼ完璧な人文学の定義だと思う。思想も文学も美術・音楽も宗教も、個の限られたいのちを超えて個を支えるもの。ひとが<人類>として創造し伝えてきた価値である。人文学はそうした創造の意味を問い、さらにその歴史的連なりを跡づけようとする。
鷲田氏の解説は納得できる。
しかし、「死ぬとわかっていてなぜ人は生きていけるのか」「その根源的な理由」という大宅映子さんの定義については、なんとなく違和感を覚えるぞ!
「死ぬ」ことなんか、普段は考えていない。
生きてる最後の日まで、「生きる」ことを考えていると思う。
生物としての本能に導かれ、生きることに全力を傾注する。
ライオンもペンギンも猫もクジラも、みんなそうだ。
「死ぬ」ことを起点に「生きる」わけではない。
いま「生きている」から「生きる」のだ。
ただそれでも「生きる意味」が知りたい。
いっぽうで「死」と向き合って生きている人がいて、そこから文学が生まれることも間違いはない。
大宅さんの定義、「意表をつく表現だが、ほぼ完璧な人文学の定義」というのは、結局妥当かもしれない。
個人的に、そういう話の持っていき方が好きではないだけの話で。
アレアレ?