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西の怪童丸!29歳までのすさまじい生きざま!天才棋士村山聖を描いた「聖の青春」を読んで

2016-11-17 13:58:56 | 青木公司のお奨め本
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皆さん、こんにちは。

プロ研修講師・プロコンサルタント・中小企業診断士の青木公司です。

本日は関西です。

さて、「西の怪童丸!29歳までのすさまじい生きざま!天才棋士村山聖を描いた「聖の青春」を読んで」です。

久々にすさまじい本を読みました。

1998年29歳で亡くなった将棋のプロ棋士、村山聖(むらやまさとし)氏の生涯を描いた一冊です。

今度、松山ケンイチさんが主演で映画化もされますよね。

僕は結構、将棋も好きなので、時々、日本将棋連盟のホームページなどを見て、現在の7冠の争いがどうなのかチェックしたりしています。

だから村山聖の名前はもちろん知っていました。

しかし、詳細までは知りませんでした。

すごい本当にすごい人生でした。


村山聖(むらやまさとし)。享年29歳。広島生まれ。

ある出来事を境に3歳から原因不明の高熱に侵されるようになった彼は5歳で原因不明の難病、ネフローゼにおかされていることが判明します。

それから、ものすごい高熱と体調不良に侵される日々。障害、この悪くなった腎臓と戦うことになります。

小学校時代もほとんど病室や療養施設で過ごす中、何気なく父に教わった将棋に目覚めます。

病室で毎日毎日、大人の読む将棋の本を漢字も読めないのに読み漁る日々。

小学校低学年にしてアマ2段などをひねるほどの強さを手に入れます。

そして小学校4年でアマチュア4段に。4年連続で中国地区小学生名人戦優勝。

全国大会にも出ますが、のちの名人、竜王を含め、7冠のうち5冠をとることになる佐藤康光永世棋聖に敗れます。

そし13歳にして、当時アマチュア名人で新宿の殺し屋と異名をとった伝説の真剣師、小池重明を破ります。

それでもほとんど病で病院への入退院を切り返す村山さん。

しかし13歳の時にとんでもないことを言い出します。

「大阪に行って奨励会(プロの登竜門)に入り、将棋のプロになりたい!」

広島から13歳で単身ですむ。そして、重い難病を抱え入退院を繰り返し、いつ何時重篤になるかわからない身。当然両親は反対しますが、本人は聞きません。

父親は親族会議を開きます。中学校長をはじめ、学校の先生など知識人の多い親族一同を集め、みんなで反対し説得しようというのです。その筋書き通りに行くはずでした。

その説得のさなか、13歳の村山少年はこういいます。

「いかせてくれ!」

「頼みます!僕を大阪に行かせてください!」

「いかせてくれ!

 谷川を倒すにはいま、いくしかないんじゃ!」

わずか21歳で名人になった光速の寄せ!当時最強の谷川名人に勝つためにその重病の身で大阪に行くというのです!

「谷川を倒すには今行くしかないんです!お願いします!僕を大阪に行かせてください!」

その魂の叫びに大人たちは誰も口を開くことができない。

そんな時、中学の校長を務める義理の弟が口を開きます。

「立派じゃないか。中学一年生が、自分の意志で自分の将来の夢を決めることなどなかなかできないことだ。それを実現するために力を貸すのが親の務めではないのか。」

そして、村山少年は大阪に行こうとしますが、大人のプロの世界の事情で、最初一年間受け入れらえません。村山少年のせいではない。村山少年はテストで5勝1敗という文句ない成績を残したのに。。

「僕には時間がない」そういい泣きじゃくる彼に誰もかける言葉はありませんでした。

しかし、彼はくじけませんでした。

「絶対に名人になる!」

そう思った彼はくじけるわけにはいかないのです。

奨励会に入った彼は羽生7冠や谷川名人をしのぐ2年11カ月という異例のスピードで出世し、17歳でプロになります。

病気により何度も何度も不戦敗があったのにです。

「僕には時間がない」。そういう思いもあったのでしょう。

生涯の師匠となる森6段には、なんと弟子でありながら全勝。

一心不乱にただただ毎日身を削るようにして将棋だけに打ち込む彼。

ネフローゼで体に水がたまりパンパンの彼は、正直でひょうひょうとしているところもあり、肉丸君、西の怪童、怪童丸と言われ、愛されます。

ぼーっとした風貌、歯に歯を着せぬ鋭い指摘。

そしてまっすぐに将棋だけをみて生き抜く彼の生き方はみんなに愛されていきます。

「終盤は村山に聞け!」そう言われるほどの洞察力と、上席研究だけでは生れない独特の感性鋭い将棋で、彼は昇格を果たしていきます。

ただ、そんな彼をひたすら病魔は彼の体を壊していきます。

真っ暗闇の中、4畳半の狭い部屋で将棋雑誌やコミックやごみにかこまれ、40度を超える熱と戦いながら真っ暗闇の夜、眠る彼。トイレに行く体力すらも温存するために近くにしびんがわりにペットボトルをおいて。

そして水道をわずかに開け、「ポタッ、ポタッ」と落ちる音のみで生きていることを確かめる日々。

デビューしてすぐに、村山少年は有名になっていきます。連戦連勝。

東に羽生、西に村山あり。

西の怪童が誕生した瞬間でした。

師匠の森プロとは親子のような師弟関係でした。

病気の村山のために、村山が好きな少女コミックを何件も探して買い漁ったり、彼の下着を洗ったり、彼の好きなものを買って病院に届けたり・・・・。

いつもいつも一緒で懸命に村山をかわいがります。

あるとき雀荘で師匠の森が麻雀をしていると村山はずかしそうに「僕、ハタチになりました!」と言いました。師匠は「そうか。それはおめでとう。それで何かいいことがあったのか?」と聞くと村山はこう答えたそうです。

「いえ。ただハタチになりました。」とうれしそうに。

彼にとって二十歳までいきてこれた。大人になれた!それがうれしかったのです。

その後、谷川プロや羽生を何度も追い込み、たった10名しか入れないプロの最高峰、A級棋士となり、伝説の戦いを何度もした村山聖。

当時、将棋界では考えられない8割近い勝率を誇り、7冠を制した絶頂期の羽生との対戦成績は6勝7敗kとほぼ五分。

もっとも羽生を苦しめた相手の一人でした。

名人に手が届きそうなそんなとき。

ネフローゼから腎臓がん、そしてがん再発、肝臓への転移。

容赦ない過酷な病魔が彼を遅い命を削り取っていきます。

そんな中、夜まで苦しみながらも執念で将棋に向き合い、戦う彼はまさに伝説の棋士でした。

彼の最後の戦いは森下、森内、木村と今もトップで活躍する最強の人間たち5名を倒しまくり5連勝で・・・そのあとは病気により不戦敗で、彼はなくなりました。

彼の亡くなる前の最後の言葉は病室ででした。

「2七銀・・・・」これが彼の最後の言葉だったそうです。

「・・・・8六歩、同歩、8五歩・・・・2七銀」

命の最後まで将棋にかけたすさまじい人生でした。。。

村山の死はその後、将棋連盟に伝えられ、しばらくは将棋会館には涙の雨が降り続いたそうです。

誰かれなく、人が人を誘い飲みに行き、そして村山について語ったそうです。

「あんなにかわいいやつはいなかった」

「あんなに面白い男はいなかった」

「あそこまで純粋な男はいるのだろうか」

そして、大阪での追悼式では、今もトップで活躍する井上慶太プロが感極まって泣きじゃくってしまい、スピーチにならなかったそうです。


彼のすさまじい生きざま、純粋に将棋にうちこむ鬼気迫る執念。

たった29年ですがものすごい濃密な人生を過ごした彼の生きざまを見て、最後、喫茶店で読みながら僕も慟哭してしまいました。

ああいう執念で人生を生きる。

そういう本気になれる瞬間を。

自分自身も多く作っていきたいと考えています。

「聖の青春」

魂の一冊。

本当におすすめです。


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