『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

斎藤利三(さいとうとしみつ)

2017-04-13 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
斎藤利三(さいとうとしみつ)

〔現代仮名遣い〕さいとうとしみつ

※下線部は信長公記以外の記事によります。

内蔵助。母は明智光秀の妹、妻は斎藤道三

の女。はじめ稲葉良通の家臣。のち明智光秀

に仕える。女は徳川家光の乳母春日局。

1570年4月信長の北陸朝倉攻めの時、守山

    で近江路次の警護をし、一揆撃退。

1580年伯父の惟任光秀に仕えて一万石を

    与えられて丹羽に住む。

1582年6月惟任光秀に従い、明智秀満・明智

    次右衛門・藤田伝五・斎藤利三は亀山

    を出立。三草山に向かった後軍を引き

    返し、老の山から京へと向かう。

1582年6月本能寺で信長を自害に追い込んだ後、

    光秀の軍勢は織田信忠の籠もる二条

    新御所を襲撃。猛烈な反撃にあった

    明智の軍は近くの近衛前久の家の屋根

    から弓・鉄炮を打ち込み、御殿に火を

    懸ける。信忠は神妙に軍働きをつとめた

    後切腹。介錯は鎌田新介がつとめ、

    指示通り亡骸を隠しておいた。

1582年6月松野平介は本能寺の変のときは

    本能寺から離れたところにおり、

    妙顕寺に入ったところで敵で知り合い

    の斎藤利三から帰参を進められる。

    ところが松野は信長公からの恩義を

    忘れず、追腹を切って果てた。

本能寺の変後山崎の合戦に従い、敗戦後

堅田で捕えられ斬られる。


 ※この前後の様々な人間関係は、

  ・斎藤利三の女(むすめ)が徳川家康の

   孫家光の乳母に取り立てられ“春日局”

   となる。

  ・家光の母お江与は信長の妹お市の娘。

  ・明智光秀の娘ガラシャは細川藤孝の

   子忠興の妻。

  とかなり複雑です。誰が本能寺で信長を

  破るように明智軍をそそのかしたのか、

  明らかにしてみたいですね。


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