『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日<天正十年の出来事>

2023-02-05 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
☆本記事初出は2022年6月です。シリーズ終
盤の関連記事として再掲しました。

【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日
 
**純野のつぶやき(つづき)**
<天正十年>
・1月1日 安土へ出仕のとき、百々の橋から
惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、死者・
手負いが多数発生

一門衆・他国衆・安土在住の衆の順番で出仕。
あらかじめ「礼銭百文を各自持参」とお触れ
を出す

惣見寺毘沙門堂・南殿・江雲寺殿・御幸の間
を見学して白洲へ戻ると信長が台所のところ
厩の前に立ち、十疋ずつの礼銭を自分の手で
受け背後に投げる

・1月 爆竹(さぎちょう)の準備を江州衆
に命じ当日興行

・1月 1580年8月佐久間父子(信盛・信栄)
を追放していたが、佐久間信盛も1581年7月
高野で病死したこともあり、信長は信栄の本
領を安堵し赦免する

佐久間信栄は岐阜へ上り、織田信忠にお礼を
申上

・1月 1581年2月備前の宇喜多直家が病死
していたので、羽柴秀吉は今度家老の者たち
をつれ安土へ参上し、黄金100枚を進上

信長は直家の子息宇喜多秀家の跡目相続を認
め、年寄りたちには一人ひとり馬が下され、
下国する

・1月 伊勢神宮の上部貞永から、信長方堀
秀政に「信長公の上意により正遷宮を再興し
たい」旨申し出が来る

上部は「費用千貫文」と申上したが、信長は
1579年12月~1580年8月の石清水八幡宮修築
で「三百貫文と言っていたのに千貫文かかっ
た」ことを思い起こし、まず平井久右衛門を
奉行として三千貫文送り遣わす
  ↓
信長は以前森長定に命じ岐阜城に入れておい
た鳥目一万六千貫文につき、「穴をつなぐ縄
をつなぎなおし、正遷宮に必要とされ次第送
るように」と織田信忠に命ず

・1月 雑賀の鈴木重秀が同地の土橋守重を
殺害する
*前年鈴木重秀の継父を土橋守重が討ち殺し
たため内々上意を得て鈴木が土橋を殺害した
もの

鈴木はその後土橋の構えに攻め寄せ、その旨
信長に注進

信長は後援として織田信張を大将として根来・
和泉の衆をおくる

土橋の子息と根来寺千職坊の兄弟が土橋の構
えに立て籠もる

・2月 信長の命により、雑賀方面に野々村
正成が土橋攻めの検使として送られる

攻撃を支えきれず、敵千職坊は構えから逃げ
出すが斎藤六大夫に討ち取られる

千職坊の頸を信長に進上すると、森長定を使
いとして斎藤に小袖と馬の褒美が下される。
千職坊の頸は百々の橋詰にさらされる

その他残党を討ち果たし、普請・掃除を命じ、
織田信張を城代として入れておく

・2月~3月 織田信忠の武田氏征伐に後付け
で参加
  ↓
信忠に知行割りを命じ、「国掟甲・信両州」
を定める。その上で、「自分が帰陣するに際
し、信州諏訪に織田信忠をおき、甲州から富
士のふもとへ行き富士山を見て、駿河・遠江
を回って帰洛する」と言い下す

・4月10日甲府を出立→19日清州へ到着→20
日岐阜へ到着→21日安土へ戻る

となります。注目されるイベントとしては以
下がありました。

1)1月1日に「安土へ出仕のとき、百々の橋
から惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、
死者・手負いが多数発生」という大事故が起
きていましたが、信長公は惣見寺毘沙門堂・
南殿・江雲寺殿・御幸の間の見学は実施しま
した。
2)その時に、一門衆・他国衆・安土在住の
衆の順番で出仕させ、あらかじめ「礼銭百文
を各自持参」とお触れを出しておき、見学後
の白洲で信長が台所のところ厩の前に立ち、
十疋(ひき)=百文ずつの礼銭を自分の手で
受け、背後に投げるという面白いことをやっ
ています。百文といえば当時一文=120円と
して12000円になります。もしかしたら日本
で初めての“有料見学ツアー”だったのかも知
れません!
3)備州・播州で戦っているはずの秀吉が昨
年末に続いて1月に安土に登城していますが、
こんなにヒマそうにしていいんですかね?そ
のほか
*伊勢神宮の再興費用を快く献上
*雑賀宗の支援
*武田氏征伐
などがありました。

以上

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