☆本記事初出は2022年6月です。シリーズ終
盤の関連記事として再掲しました。
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日
**純野のつぶやき(つづき)**
<天正十年>
・1月1日 安土へ出仕のとき、百々の橋から
惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、死者・
手負いが多数発生
↓
一門衆・他国衆・安土在住の衆の順番で出仕。
あらかじめ「礼銭百文を各自持参」とお触れ
を出す
↓
惣見寺毘沙門堂・南殿・江雲寺殿・御幸の間
を見学して白洲へ戻ると信長が台所のところ
厩の前に立ち、十疋ずつの礼銭を自分の手で
受け背後に投げる
・1月 爆竹(さぎちょう)の準備を江州衆
に命じ当日興行
・1月 1580年8月佐久間父子(信盛・信栄)
を追放していたが、佐久間信盛も1581年7月
高野で病死したこともあり、信長は信栄の本
領を安堵し赦免する
↓
佐久間信栄は岐阜へ上り、織田信忠にお礼を
申上
・1月 1581年2月備前の宇喜多直家が病死
していたので、羽柴秀吉は今度家老の者たち
をつれ安土へ参上し、黄金100枚を進上
↓
信長は直家の子息宇喜多秀家の跡目相続を認
め、年寄りたちには一人ひとり馬が下され、
下国する
・1月 伊勢神宮の上部貞永から、信長方堀
秀政に「信長公の上意により正遷宮を再興し
たい」旨申し出が来る
↓
上部は「費用千貫文」と申上したが、信長は
1579年12月~1580年8月の石清水八幡宮修築
で「三百貫文と言っていたのに千貫文かかっ
た」ことを思い起こし、まず平井久右衛門を
奉行として三千貫文送り遣わす
↓
信長は以前森長定に命じ岐阜城に入れておい
た鳥目一万六千貫文につき、「穴をつなぐ縄
をつなぎなおし、正遷宮に必要とされ次第送
るように」と織田信忠に命ず
・1月 雑賀の鈴木重秀が同地の土橋守重を
殺害する
*前年鈴木重秀の継父を土橋守重が討ち殺し
たため内々上意を得て鈴木が土橋を殺害した
もの
↓
鈴木はその後土橋の構えに攻め寄せ、その旨
信長に注進
↓
信長は後援として織田信張を大将として根来・
和泉の衆をおくる
↓
土橋の子息と根来寺千職坊の兄弟が土橋の構
えに立て籠もる
・2月 信長の命により、雑賀方面に野々村
正成が土橋攻めの検使として送られる
↓
攻撃を支えきれず、敵千職坊は構えから逃げ
出すが斎藤六大夫に討ち取られる
↓
千職坊の頸を信長に進上すると、森長定を使
いとして斎藤に小袖と馬の褒美が下される。
千職坊の頸は百々の橋詰にさらされる
↓
その他残党を討ち果たし、普請・掃除を命じ、
織田信張を城代として入れておく
・2月~3月 織田信忠の武田氏征伐に後付け
で参加
↓
信忠に知行割りを命じ、「国掟甲・信両州」
を定める。その上で、「自分が帰陣するに際
し、信州諏訪に織田信忠をおき、甲州から富
士のふもとへ行き富士山を見て、駿河・遠江
を回って帰洛する」と言い下す
・4月10日甲府を出立→19日清州へ到着→20
日岐阜へ到着→21日安土へ戻る
となります。注目されるイベントとしては以
下がありました。
1)1月1日に「安土へ出仕のとき、百々の橋
から惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、
死者・手負いが多数発生」という大事故が起
きていましたが、信長公は惣見寺毘沙門堂・
南殿・江雲寺殿・御幸の間の見学は実施しま
した。
2)その時に、一門衆・他国衆・安土在住の
衆の順番で出仕させ、あらかじめ「礼銭百文
を各自持参」とお触れを出しておき、見学後
の白洲で信長が台所のところ厩の前に立ち、
十疋(ひき)=百文ずつの礼銭を自分の手で
受け、背後に投げるという面白いことをやっ
ています。百文といえば当時一文=120円と
して12000円になります。もしかしたら日本
で初めての“有料見学ツアー”だったのかも知
れません!
3)備州・播州で戦っているはずの秀吉が昨
年末に続いて1月に安土に登城していますが、
こんなにヒマそうにしていいんですかね?そ
のほか
*伊勢神宮の再興費用を快く献上
*雑賀宗の支援
*武田氏征伐
などがありました。
以上
盤の関連記事として再掲しました。
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日
**純野のつぶやき(つづき)**
<天正十年>
・1月1日 安土へ出仕のとき、百々の橋から
惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、死者・
手負いが多数発生
↓
一門衆・他国衆・安土在住の衆の順番で出仕。
あらかじめ「礼銭百文を各自持参」とお触れ
を出す
↓
惣見寺毘沙門堂・南殿・江雲寺殿・御幸の間
を見学して白洲へ戻ると信長が台所のところ
厩の前に立ち、十疋ずつの礼銭を自分の手で
受け背後に投げる
・1月 爆竹(さぎちょう)の準備を江州衆
に命じ当日興行
・1月 1580年8月佐久間父子(信盛・信栄)
を追放していたが、佐久間信盛も1581年7月
高野で病死したこともあり、信長は信栄の本
領を安堵し赦免する
↓
佐久間信栄は岐阜へ上り、織田信忠にお礼を
申上
・1月 1581年2月備前の宇喜多直家が病死
していたので、羽柴秀吉は今度家老の者たち
をつれ安土へ参上し、黄金100枚を進上
↓
信長は直家の子息宇喜多秀家の跡目相続を認
め、年寄りたちには一人ひとり馬が下され、
下国する
・1月 伊勢神宮の上部貞永から、信長方堀
秀政に「信長公の上意により正遷宮を再興し
たい」旨申し出が来る
↓
上部は「費用千貫文」と申上したが、信長は
1579年12月~1580年8月の石清水八幡宮修築
で「三百貫文と言っていたのに千貫文かかっ
た」ことを思い起こし、まず平井久右衛門を
奉行として三千貫文送り遣わす
↓
信長は以前森長定に命じ岐阜城に入れておい
た鳥目一万六千貫文につき、「穴をつなぐ縄
をつなぎなおし、正遷宮に必要とされ次第送
るように」と織田信忠に命ず
・1月 雑賀の鈴木重秀が同地の土橋守重を
殺害する
*前年鈴木重秀の継父を土橋守重が討ち殺し
たため内々上意を得て鈴木が土橋を殺害した
もの
↓
鈴木はその後土橋の構えに攻め寄せ、その旨
信長に注進
↓
信長は後援として織田信張を大将として根来・
和泉の衆をおくる
↓
土橋の子息と根来寺千職坊の兄弟が土橋の構
えに立て籠もる
・2月 信長の命により、雑賀方面に野々村
正成が土橋攻めの検使として送られる
↓
攻撃を支えきれず、敵千職坊は構えから逃げ
出すが斎藤六大夫に討ち取られる
↓
千職坊の頸を信長に進上すると、森長定を使
いとして斎藤に小袖と馬の褒美が下される。
千職坊の頸は百々の橋詰にさらされる
↓
その他残党を討ち果たし、普請・掃除を命じ、
織田信張を城代として入れておく
・2月~3月 織田信忠の武田氏征伐に後付け
で参加
↓
信忠に知行割りを命じ、「国掟甲・信両州」
を定める。その上で、「自分が帰陣するに際
し、信州諏訪に織田信忠をおき、甲州から富
士のふもとへ行き富士山を見て、駿河・遠江
を回って帰洛する」と言い下す
・4月10日甲府を出立→19日清州へ到着→20
日岐阜へ到着→21日安土へ戻る
となります。注目されるイベントとしては以
下がありました。
1)1月1日に「安土へ出仕のとき、百々の橋
から惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、
死者・手負いが多数発生」という大事故が起
きていましたが、信長公は惣見寺毘沙門堂・
南殿・江雲寺殿・御幸の間の見学は実施しま
した。
2)その時に、一門衆・他国衆・安土在住の
衆の順番で出仕させ、あらかじめ「礼銭百文
を各自持参」とお触れを出しておき、見学後
の白洲で信長が台所のところ厩の前に立ち、
十疋(ひき)=百文ずつの礼銭を自分の手で
受け、背後に投げるという面白いことをやっ
ています。百文といえば当時一文=120円と
して12000円になります。もしかしたら日本
で初めての“有料見学ツアー”だったのかも知
れません!
3)備州・播州で戦っているはずの秀吉が昨
年末に続いて1月に安土に登城していますが、
こんなにヒマそうにしていいんですかね?そ
のほか
*伊勢神宮の再興費用を快く献上
*雑賀宗の支援
*武田氏征伐
などがありました。
以上