『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:47織田信長黒印状 天正九年九月十六日

2022-05-15 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


47織田信長黒印状 天正九年九月十六日
 
折帋(手紙)ならびに松井(康之)からの注

進状を見させていただいた。伯州(=伯耆の

国)方面に至り深々と動き入り、泊城(とま

りじょう⇒現在の名前は河口城)に押し入り

敵を数多く討ち取り放火し、敵船65艘を切り

捨てたとのこと。もっとも比類なき軍働きで

あったこと神妙である。その中で、討ち入り

の時に大崎城から罷り出てきた敵兵を追い崩

し、山の下を焼き払ったとのこと。かたがた、

感ずるところ浅くない。よくよく軍働きを究

め、粉骨(砕身)をいよいよ抜きんでる様子

を聞かせていただきたいこと専一である。

天正九年九月十六日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

    ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送

られた書状と同日に出された父長岡藤孝あて

の書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興に対

しては、一緒に括らないでそれぞれの功績に

ついて評価を伝えるところが信長公の細かい

ところです。長岡父子は丹後国に在陣し、伯

耆国への出兵を指図しているようです。

 このころの織田家の動きは

・9月3日 北畠信雄、伊賀攻めに出陣

・9月8日 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・

 猪子高就・安西の4人に知行地を分け与え

 る。また安土天主造営に携わった職人頭に

 小袖を下す

・9月11日 信雄、伊賀平定

となっています。同時並行で多方面の情報を

分析して現地の大将に最高の軍働きをさせる

信長公の能力は、現代のAIによる戦争であっ

ても完全に管理できるのではないかと恐ろし

くなります。

以上


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