【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
47織田信長黒印状 天正九年九月十六日
折帋(手紙)ならびに松井(康之)からの注
進状を見させていただいた。伯州(=伯耆の
国)方面に至り深々と動き入り、泊城(とま
りじょう⇒現在の名前は河口城)に押し入り
敵を数多く討ち取り放火し、敵船65艘を切り
捨てたとのこと。もっとも比類なき軍働きで
あったこと神妙である。その中で、討ち入り
の時に大崎城から罷り出てきた敵兵を追い崩
し、山の下を焼き払ったとのこと。かたがた、
感ずるところ浅くない。よくよく軍働きを究
め、粉骨(砕身)をいよいよ抜きんでる様子
を聞かせていただきたいこと専一である。
天正九年九月十六日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送
られた書状と同日に出された父長岡藤孝あて
の書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興に対
しては、一緒に括らないでそれぞれの功績に
ついて評価を伝えるところが信長公の細かい
ところです。長岡父子は丹後国に在陣し、伯
耆国への出兵を指図しているようです。
このころの織田家の動きは
・9月3日 北畠信雄、伊賀攻めに出陣
・9月8日 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・
猪子高就・安西の4人に知行地を分け与え
る。また安土天主造営に携わった職人頭に
小袖を下す
・9月11日 信雄、伊賀平定
となっています。同時並行で多方面の情報を
分析して現地の大将に最高の軍働きをさせる
信長公の能力は、現代のAIによる戦争であっ
ても完全に管理できるのではないかと恐ろし
くなります。
以上
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
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47織田信長黒印状 天正九年九月十六日
折帋(手紙)ならびに松井(康之)からの注
進状を見させていただいた。伯州(=伯耆の
国)方面に至り深々と動き入り、泊城(とま
りじょう⇒現在の名前は河口城)に押し入り
敵を数多く討ち取り放火し、敵船65艘を切り
捨てたとのこと。もっとも比類なき軍働きで
あったこと神妙である。その中で、討ち入り
の時に大崎城から罷り出てきた敵兵を追い崩
し、山の下を焼き払ったとのこと。かたがた、
感ずるところ浅くない。よくよく軍働きを究
め、粉骨(砕身)をいよいよ抜きんでる様子
を聞かせていただきたいこと専一である。
天正九年九月十六日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送
られた書状と同日に出された父長岡藤孝あて
の書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興に対
しては、一緒に括らないでそれぞれの功績に
ついて評価を伝えるところが信長公の細かい
ところです。長岡父子は丹後国に在陣し、伯
耆国への出兵を指図しているようです。
このころの織田家の動きは
・9月3日 北畠信雄、伊賀攻めに出陣
・9月8日 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・
猪子高就・安西の4人に知行地を分け与え
る。また安土天主造営に携わった職人頭に
小袖を下す
・9月11日 信雄、伊賀平定
となっています。同時並行で多方面の情報を
分析して現地の大将に最高の軍働きをさせる
信長公の能力は、現代のAIによる戦争であっ
ても完全に管理できるのではないかと恐ろし
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