【信長公の生年、位官昇進、没年】
1534年誕生。幼名:吉法師(きっぽうし)。
1546年織田吉法師、古渡城に赴き元服。「三郎
信長」と名乗る。
1549年織田三郎信長、熱田八ヶ村に制札を下し、
「藤原信長」と署名。
1552年父信秀の死去により三郎信長家督を継ぐ。
1553年から「上総介」と名乗る。
1555年信長、2月5日付け一雲軒と花井右衛門兵
衛尉にあてた判物で「上総介」と署名。
1568年足利義昭が上洛戦後の信長への感状で
「御父織田弾正忠殿」と表記。
1569年正親町帝から副将軍職を勧められるも返
答しなかったらしい。
1573年7月「天正元年」に改元。
1574年信長、正四位下弾正忠から従三位参議へ
昇進。
1575年主上から昇官を勧められるが、信長は遠
慮して受けず。そのかわり、下記の人事を奏上。
*松井友閑→宮内卿法印、
*武井夕庵→二位法印、
*明智光秀→惟任日向守、
*簗田広正→別喜右近、
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1576年信長、内大臣に官を進める。
1577年右大臣昇任。
1578年右大臣、右近衛大将辞任。
1582年本能寺の変で明智光秀の軍に討たれる。
没後贈従一位・太政大臣。
1582年7月細川藤孝、本能寺で信長追善の連歌
会を開催。
1582年9月秀吉、羽柴秀勝を喪主として、信長百
ヶ日法要を挙行。同時期に柴田勝家は、お市の
方に命じ京都妙心寺で信長百ヶ日法要を挙行。
※信長が「上総守」と名乗った時期もあるよう
ですが、“関東十カ国は親王の任国”というル
ールがあり、武家が関東十カ国の第一位 “守
(かみ)”を称するのは間違っており、第二位
の“介(すけ)”が武家としての最高位となりま
す。信長とその周辺もすぐに気付いたようで、
「上総介」と直しています。
※位官名を戦国時代は勝手に自分でつけて
いたように言う向きもありますが、正式には
「成功(じょうこう)」などの金銭を納め、
朝廷との仲立ちをする人々(山科言継など)
にお願いしていたと思われます。
※なお、代々織田弾正忠家が受け継いできた
「備後守」に信長が進んだかどうか、権大
納言に進んだ時期、右近衛大将に進んだ時
期、については把握できておりません。
1534年誕生。幼名:吉法師(きっぽうし)。
1546年織田吉法師、古渡城に赴き元服。「三郎
信長」と名乗る。
1549年織田三郎信長、熱田八ヶ村に制札を下し、
「藤原信長」と署名。
1552年父信秀の死去により三郎信長家督を継ぐ。
1553年から「上総介」と名乗る。
1555年信長、2月5日付け一雲軒と花井右衛門兵
衛尉にあてた判物で「上総介」と署名。
1568年足利義昭が上洛戦後の信長への感状で
「御父織田弾正忠殿」と表記。
1569年正親町帝から副将軍職を勧められるも返
答しなかったらしい。
1573年7月「天正元年」に改元。
1574年信長、正四位下弾正忠から従三位参議へ
昇進。
1575年主上から昇官を勧められるが、信長は遠
慮して受けず。そのかわり、下記の人事を奏上。
*松井友閑→宮内卿法印、
*武井夕庵→二位法印、
*明智光秀→惟任日向守、
*簗田広正→別喜右近、
*丹羽長秀→姓を惟住に。
1576年信長、内大臣に官を進める。
1577年右大臣昇任。
1578年右大臣、右近衛大将辞任。
1582年本能寺の変で明智光秀の軍に討たれる。
没後贈従一位・太政大臣。
1582年7月細川藤孝、本能寺で信長追善の連歌
会を開催。
1582年9月秀吉、羽柴秀勝を喪主として、信長百
ヶ日法要を挙行。同時期に柴田勝家は、お市の
方に命じ京都妙心寺で信長百ヶ日法要を挙行。
※信長が「上総守」と名乗った時期もあるよう
ですが、“関東十カ国は親王の任国”というル
ールがあり、武家が関東十カ国の第一位 “守
(かみ)”を称するのは間違っており、第二位
の“介(すけ)”が武家としての最高位となりま
す。信長とその周辺もすぐに気付いたようで、
「上総介」と直しています。
※位官名を戦国時代は勝手に自分でつけて
いたように言う向きもありますが、正式には
「成功(じょうこう)」などの金銭を納め、
朝廷との仲立ちをする人々(山科言継など)
にお願いしていたと思われます。
※なお、代々織田弾正忠家が受け継いできた
「備後守」に信長が進んだかどうか、権大
納言に進んだ時期、右近衛大将に進んだ時
期、については把握できておりません。