『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

<番外編>織田信長のこと5/5【信長公の生年、位官昇進、没年】

2020-01-03 00:00:00 | 純野のつぶやき、あるいは趣味と妄想
【信長公の生年、位官昇進、没年】

1534年誕生。幼名:吉法師(きっぽうし)。

1546年織田吉法師、古渡城に赴き元服。「三郎

信長」と名乗る。

1549年織田三郎信長、熱田八ヶ村に制札を下し、

「藤原信長」と署名。

1552年父信秀の死去により三郎信長家督を継ぐ。

1553年から「上総介」と名乗る。

1555年信長、2月5日付け一雲軒と花井右衛門兵

衛尉にあてた判物で「上総介」と署名。

1568年足利義昭が上洛戦後の信長への感状で

「御父織田弾正忠殿」と表記。

1569年正親町帝から副将軍職を勧められるも返

答しなかったらしい。

1573年7月「天正元年」に改元。

1574年信長、正四位下弾正忠から従三位参議へ

昇進。

1575年主上から昇官を勧められるが、信長は遠

慮して受けず。そのかわり、下記の人事を奏上。

*松井友閑→宮内卿法印、

*武井夕庵→二位法印、

*明智光秀→惟任日向守、

*簗田広正→別喜右近、

*丹羽長秀→姓を惟住に。

1576年信長、内大臣に官を進める。

1577年右大臣昇任。

1578年右大臣、右近衛大将辞任。

1582年本能寺の変で明智光秀の軍に討たれる。

没後贈従一位・太政大臣。

1582年7月細川藤孝、本能寺で信長追善の連歌

会を開催。

1582年9月秀吉、羽柴秀勝を喪主として、信長百

ヶ日法要を挙行。同時期に柴田勝家は、お市の

方に命じ京都妙心寺で信長百ヶ日法要を挙行。


※信長が「上総守」と名乗った時期もあるよう

ですが、“関東十カ国は親王の任国”というル

ールがあり、武家が関東十カ国の第一位 “守

(かみ)”を称するのは間違っており、第二位

の“介(すけ)”が武家としての最高位となりま

す。信長とその周辺もすぐに気付いたようで、

「上総介」と直しています。

※位官名を戦国時代は勝手に自分でつけて

いたように言う向きもありますが、正式には

 「成功(じょうこう)」などの金銭を納め、

朝廷との仲立ちをする人々(山科言継など)

にお願いしていたと思われます。

※なお、代々織田弾正忠家が受け継いできた

 「備後守」に信長が進んだかどうか、権大

納言に進んだ時期、右近衛大将に進んだ時

期、については把握できておりません。

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