狩野光信(かのうみつのぶ)
〔現代かなづかい〕かのうみつのぶ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
右京亮。狩野永徳の嫡子。少年時から織田・
豊臣・徳川家の画用をつとめた。ただ古来
狩野一門の中でも影が薄く、確実な遺作も
優品として著聞するものも乏しい。1968年
発見の「肥前名護屋城図屏風」、それに
「豊臣秀吉像」はその作と孝定される。ついで
園城寺客殿の金碧「四季花木図襖絵」や相国寺
法堂の天井画、高台寺客殿障屏画が光信作と
伝える。
1581年9月信長は安土城造営にかかわった
諸職人頭(狩野永徳・息右京助、木村
次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・
同息、遊左衛門・子息、竹尾源七、松村、
後藤平四郎、刑部、新七、奈良大工)に
小袖を下した。
江戸からの帰途1608年桑名で病没。
※親が超有名だと子供は出る目が
ないんですかね。今も昔も創業者
二世の苦労は大変なようです。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
〔現代かなづかい〕かのうみつのぶ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
右京亮。狩野永徳の嫡子。少年時から織田・
豊臣・徳川家の画用をつとめた。ただ古来
狩野一門の中でも影が薄く、確実な遺作も
優品として著聞するものも乏しい。1968年
発見の「肥前名護屋城図屏風」、それに
「豊臣秀吉像」はその作と孝定される。ついで
園城寺客殿の金碧「四季花木図襖絵」や相国寺
法堂の天井画、高台寺客殿障屏画が光信作と
伝える。
1581年9月信長は安土城造営にかかわった
諸職人頭(狩野永徳・息右京助、木村
次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・
同息、遊左衛門・子息、竹尾源七、松村、
後藤平四郎、刑部、新七、奈良大工)に
小袖を下した。
江戸からの帰途1608年桑名で病没。
※親が超有名だと子供は出る目が
ないんですかね。今も昔も創業者
二世の苦労は大変なようです。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村