『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

狩野光信(かのうみつのぶ)

2016-08-26 06:30:00 | 信長公記の蔵:人物篇
狩野光信(かのうみつのぶ)

〔現代かなづかい〕かのうみつのぶ

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


右京亮。狩野永徳の嫡子。少年時から織田・

豊臣・徳川家の画用をつとめた。ただ古来

狩野一門の中でも影が薄く、確実な遺作も

優品として著聞するものも乏しい。1968年

発見の「肥前名護屋城図屏風」、それに

「豊臣秀吉像」はその作と孝定される。ついで

園城寺客殿の金碧「四季花木図襖絵」や相国寺

法堂の天井画、高台寺客殿障屏画が光信作と

伝える。


1581年9月信長は安土城造営にかかわった

    諸職人頭(狩野永徳・息右京助、木村

    次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・

    同息、遊左衛門・子息、竹尾源七、松村、

    後藤平四郎、刑部、新七、奈良大工)に

    小袖を下した。

江戸からの帰途1608年桑名で病没。


 ※親が超有名だと子供は出る目が

  ないんですかね。今も昔も創業者

  二世の苦労は大変なようです。


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