【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
44織田信長朱印状 天正九年九月四日
丹後国の矢野藤一の知行分について、最前
申上があった員数(=軍勢)と四千五百石を
あてがったとのこと。残りの分があれば(貴
殿に)すべて進止(=差配)を任すので、
(今後も)戦功を抽んでるよう願う。
天正九年九月四日 信長(朱印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
前回の書状と同じ日付の書状です。矢野藤一
とは、信長公記に出てくる“矢野”という人物
と思われます。
<矢野>丹後国竹野郡吉永城主。1575年
8月信長越前攻撃の時、丹後を出発し海上か
ら攻め込む。
とのことですから、かなり長いこと織田家に
仕えてきた人物ですので、相応しい厚遇と思
われます。
以上
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<明治神宮に向かう道>
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はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
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丹後国の矢野藤一の知行分について、最前
申上があった員数(=軍勢)と四千五百石を
あてがったとのこと。残りの分があれば(貴
殿に)すべて進止(=差配)を任すので、
(今後も)戦功を抽んでるよう願う。
天正九年九月四日 信長(朱印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正九年=1581年
**純野のつぶやき**
前回の書状と同じ日付の書状です。矢野藤一
とは、信長公記に出てくる“矢野”という人物
と思われます。
<矢野>丹後国竹野郡吉永城主。1575年
8月信長越前攻撃の時、丹後を出発し海上か
ら攻め込む。
とのことですから、かなり長いこと織田家に
仕えてきた人物ですので、相応しい厚遇と思
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