『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:44織田信長朱印状 天正九年九月四日

2021-05-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


44織田信長朱印状 天正九年九月四日

 丹後国の矢野藤一の知行分について、最前

申上があった員数(=軍勢)と四千五百石を

あてがったとのこと。残りの分があれば(貴

殿に)すべて進止(=差配)を任すので、

(今後も)戦功を抽んでるよう願う。


天正九年九月四日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状と同じ日付の書状です。矢野藤一

とは、信長公記に出てくる“矢野”という人物

と思われます。

<矢野>丹後国竹野郡吉永城主。1575年

8月信長越前攻撃の時、丹後を出発し海上か

ら攻め込む。

とのことですから、かなり長いこと織田家に

仕えてきた人物ですので、相応しい厚遇と思

われます。

以上

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