『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:45織田信長朱印状 天正九年九月十日

2021-06-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


45織田信長朱印状 天正九年九月十日 

(丹後国の)矢野(藤一)の知行で今回(差

出により)出てきた分について、(9月4日付

けの)手紙を長岡藤孝に送ったのだが、今現

在矢野藤一は因州(=因幡国)方面に在陣し

ているとのこと。(丹後国に)帰陣すること

がない間は、強いて(これらの内容を伝える)

上使を派遣してもどうかと思われるのでまず

は派遣は行わず、(当人が)帰国した時申し

付けるのがもっともかと思う。また、矢野に

本地を渡すこと、員数(=軍勢)が申し立て

に相違ないこと、などについて申す事もない

ようであるのは良かった。(矢野の)意を汲

むように願う。


天正九年九月十日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 惟任日向守(光秀)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状が9月7日付けでしたから三日後の

書状となります。

「一度は矢野の知行分について長岡藤孝に手

紙を送ったが、矢野本人は因幡国方面に在陣

中らしいので戻ってきてからでもよくはない

か?」

という内容です。信長公も細かいですね~!

ここまで心配性な主君も珍しいのではないで

しょうか?

 この前後の織田家の動向としては、

・9月8日

 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・猪子高就・

 安西の4人に知行地を分け与える。また安土

 天主造営に携わった職人頭に小袖を下す。

・9月11日

 北畠信雄、伊賀平定。

・9月

 高山重友、鳥取から安土へ戻り、信長に現地

 の状況を説明。

などとなっており、信長本人は1575年11

月に嫡子信忠に家督を譲ってから全く軍に出向

くつもりがない状態が続いています。やはり、

1570年5月北陸攻めから京へ戻った信長が

千草越えで岐阜へ戻ろうとした時、山中で佐々

木六角義賢の命を受けた杉谷善住坊から二つだ

まの鉄炮で狙い撃ちされ、命は助かったものの

膝を撃たれたようなので、軍に出れるほどうま

く歩けなくなったんですかね・・

以上

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