狩野永徳(かのうえいとく)[2/2]
〔現代かなづかい〕かのうえいとく
※下線部は信長公記以外の記事によります。
織田信長についで羽柴秀吉にも用いられて、
大坂城・聚楽第に一門を率いて描き、狩野派
様式を名実共に完成させて当代画壇の第一人者
となった。御所や諸寺の襖絵の執筆も種々伝え
られるし、現在京都の諸寺に伝永徳の障屏画は
数多くあるが、信ずべき遺品は存外少ない。
唯一の確実な遺品・御物で最も有名な金地濃彩
の「唐獅子図屏風」(1582年秀吉が毛利氏との
講和の際に贈った陣屋屏風と伝え、明治まで
毛利家に伝来)には孫の探幽の紙中極(しちゅう
ぎわめ)があり、「松鶴芦雁図屏風」には同じく
安信の紙中極がある。また「檜図屏風」は、
永徳筆にいささか疑問を残しながら、その豪壮の
構図・筆致に永徳様を忠実に伝え、「松鷹図屏風」
も永納の紙中極を持ち、また永徳様を伝えている。
※本記事部分は「戦国人名事典」を
参照しています。
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織田信長についで羽柴秀吉にも用いられて、
大坂城・聚楽第に一門を率いて描き、狩野派
様式を名実共に完成させて当代画壇の第一人者
となった。御所や諸寺の襖絵の執筆も種々伝え
られるし、現在京都の諸寺に伝永徳の障屏画は
数多くあるが、信ずべき遺品は存外少ない。
唯一の確実な遺品・御物で最も有名な金地濃彩
の「唐獅子図屏風」(1582年秀吉が毛利氏との
講和の際に贈った陣屋屏風と伝え、明治まで
毛利家に伝来)には孫の探幽の紙中極(しちゅう
ぎわめ)があり、「松鶴芦雁図屏風」には同じく
安信の紙中極がある。また「檜図屏風」は、
永徳筆にいささか疑問を残しながら、その豪壮の
構図・筆致に永徳様を忠実に伝え、「松鷹図屏風」
も永納の紙中極を持ち、また永徳様を伝えている。
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