『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:朝倉氏

2016-08-21 06:30:00 | 戦国名家の系譜
【朝倉氏の歴史】

*開化天皇の皇子丹波彦坐命(いますのみこと)

 を祖神とする但馬国造家の支流で、本姓日下部氏。

 元弘三年(1333)足利氏の挙兵の際に斯波氏

 に属し、建武四年(1337)斯波氏にしたがって

 越前に入部し、新田方と戦う。南北朝期は北朝方

 として戦う。この間一族が越前各地に氏族を形成。

*文明四年(1471)5月、応仁の乱の中、敏景

 (孝景)が西軍から東軍に寝返り、将軍義政から

 越前守護に補任される。敏景は守護代の甲斐氏を

 追い払い、坂井郡黒丸城から一乗谷へ移る。

*その嫡孫貞景は、一族の叛乱を鎮圧。1488年

 加賀守護富樫政親を倒して意気あがる一向一揆が、

 甲斐氏の余党をたすけて侵入してきたのを撃退する。

 その後一揆の越前進攻を打ち破り、越前国の経営を

 確立する。

*その子孝景は将軍義稙をたすける為近江へ出兵。

 将軍義晴に召されて上洛した。加賀の大小一揆の

 抗争では小一揆を応援。佐々木六角氏と浅井氏の

 戦いには、浅井氏に援軍を送った。美濃土岐氏の

 内紛(兄頼武と弟頼芸)では、佐々木六角定頼と

 ともに頼武をたすけ、頼芸をかついだ斎藤道三と

 対抗する。最終的には弟頼芸が守護職に就いた。

 1538年には朝倉氏は御相伴衆に列せられる。

*その子義景は文化的な面では秀で、多くの公家が

 越前を来訪したが、戦略的には能力不足。1552年

 には将軍義輝から篇諱を受けて「延景」を「義景」

 とあらため、父子が幕府と関連深かったにも

 かかわらず頼ってきた足利義秋(義昭)の扱いを

 ぐずっているうちに信長が義昭の入洛・征夷将軍

 就位を成立させる。信長・義昭の発した上洛命令に

 返事もしなかったため越前攻撃の口実を与え、

 結局味方につけたはずの浅井氏とともに信長の軍に

 滅ぼされる。


 ※皇家の末裔であり幕府の御相伴衆という

  すばらしい立場であったにもかかわらず、

  一瞬の判断ミスで軍場の灰塵と帰す。

  “諸行無常”でございます。


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