【朝倉氏の歴史】
*開化天皇の皇子丹波彦坐命(いますのみこと)
を祖神とする但馬国造家の支流で、本姓日下部氏。
元弘三年(1333)足利氏の挙兵の際に斯波氏
に属し、建武四年(1337)斯波氏にしたがって
越前に入部し、新田方と戦う。南北朝期は北朝方
として戦う。この間一族が越前各地に氏族を形成。
*文明四年(1471)5月、応仁の乱の中、敏景
(孝景)が西軍から東軍に寝返り、将軍義政から
越前守護に補任される。敏景は守護代の甲斐氏を
追い払い、坂井郡黒丸城から一乗谷へ移る。
*その嫡孫貞景は、一族の叛乱を鎮圧。1488年
加賀守護富樫政親を倒して意気あがる一向一揆が、
甲斐氏の余党をたすけて侵入してきたのを撃退する。
その後一揆の越前進攻を打ち破り、越前国の経営を
確立する。
*その子孝景は将軍義稙をたすける為近江へ出兵。
将軍義晴に召されて上洛した。加賀の大小一揆の
抗争では小一揆を応援。佐々木六角氏と浅井氏の
戦いには、浅井氏に援軍を送った。美濃土岐氏の
内紛(兄頼武と弟頼芸)では、佐々木六角定頼と
ともに頼武をたすけ、頼芸をかついだ斎藤道三と
対抗する。最終的には弟頼芸が守護職に就いた。
1538年には朝倉氏は御相伴衆に列せられる。
*その子義景は文化的な面では秀で、多くの公家が
越前を来訪したが、戦略的には能力不足。1552年
には将軍義輝から篇諱を受けて「延景」を「義景」
とあらため、父子が幕府と関連深かったにも
かかわらず頼ってきた足利義秋(義昭)の扱いを
ぐずっているうちに信長が義昭の入洛・征夷将軍
就位を成立させる。信長・義昭の発した上洛命令に
返事もしなかったため越前攻撃の口実を与え、
結局味方につけたはずの浅井氏とともに信長の軍に
滅ぼされる。
※皇家の末裔であり幕府の御相伴衆という
すばらしい立場であったにもかかわらず、
一瞬の判断ミスで軍場の灰塵と帰す。
“諸行無常”でございます。
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*開化天皇の皇子丹波彦坐命(いますのみこと)
を祖神とする但馬国造家の支流で、本姓日下部氏。
元弘三年(1333)足利氏の挙兵の際に斯波氏
に属し、建武四年(1337)斯波氏にしたがって
越前に入部し、新田方と戦う。南北朝期は北朝方
として戦う。この間一族が越前各地に氏族を形成。
*文明四年(1471)5月、応仁の乱の中、敏景
(孝景)が西軍から東軍に寝返り、将軍義政から
越前守護に補任される。敏景は守護代の甲斐氏を
追い払い、坂井郡黒丸城から一乗谷へ移る。
*その嫡孫貞景は、一族の叛乱を鎮圧。1488年
加賀守護富樫政親を倒して意気あがる一向一揆が、
甲斐氏の余党をたすけて侵入してきたのを撃退する。
その後一揆の越前進攻を打ち破り、越前国の経営を
確立する。
*その子孝景は将軍義稙をたすける為近江へ出兵。
将軍義晴に召されて上洛した。加賀の大小一揆の
抗争では小一揆を応援。佐々木六角氏と浅井氏の
戦いには、浅井氏に援軍を送った。美濃土岐氏の
内紛(兄頼武と弟頼芸)では、佐々木六角定頼と
ともに頼武をたすけ、頼芸をかついだ斎藤道三と
対抗する。最終的には弟頼芸が守護職に就いた。
1538年には朝倉氏は御相伴衆に列せられる。
*その子義景は文化的な面では秀で、多くの公家が
越前を来訪したが、戦略的には能力不足。1552年
には将軍義輝から篇諱を受けて「延景」を「義景」
とあらため、父子が幕府と関連深かったにも
かかわらず頼ってきた足利義秋(義昭)の扱いを
ぐずっているうちに信長が義昭の入洛・征夷将軍
就位を成立させる。信長・義昭の発した上洛命令に
返事もしなかったため越前攻撃の口実を与え、
結局味方につけたはずの浅井氏とともに信長の軍に
滅ぼされる。
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