武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)
<現代仮名遣い>むとうしゅんしゅう
宗右衛門・惣左衛門・惣右衛門。若狭衆。のち
信長の臣。
1574年1月越前守護代前波長俊が府中富田長繁
に攻められ自刃すると、敦賀まで差し向
けられる。
1575年8月岐阜を進発した信長軍は、敦賀では
武藤のところに布陣。
1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。
1575年9月戦後敦賀郡の経営を任され、在地。
1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か
ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。
1578年6月信忠播磨攻めに参戦し、神吉城を攻撃。
1578年11月信長の荒木成敗に参戦し、太田の北
の山に要害造営を命じられる。太田取手
の造営が終わると、伊丹まで進出。家臣
の足軽が活躍し頸四つをとり、あまの信長
の目にかける。伊丹近辺に放火し城勢の
働きを押え、刀根山に布陣。
1578年12月毛馬取手に布陣。
1579年4月昆陽野古城の城番をつとめる。
1579年6月伊丹方面在陣の滝川一益・蜂屋頼隆・武
藤舜秀・惟住長秀・福富秀勝に対し、信長
から青地与右衛門を使いとして、はいたか
三足・このり二足が送られる。
1579年7月3日伊丹の陣中で病死。
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<現代仮名遣い>むとうしゅんしゅう
宗右衛門・惣左衛門・惣右衛門。若狭衆。のち
信長の臣。
1574年1月越前守護代前波長俊が府中富田長繁
に攻められ自刃すると、敦賀まで差し向
けられる。
1575年8月岐阜を進発した信長軍は、敦賀では
武藤のところに布陣。
1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。
1575年9月戦後敦賀郡の経営を任され、在地。
1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か
ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。
1578年6月信忠播磨攻めに参戦し、神吉城を攻撃。
1578年11月信長の荒木成敗に参戦し、太田の北
の山に要害造営を命じられる。太田取手
の造営が終わると、伊丹まで進出。家臣
の足軽が活躍し頸四つをとり、あまの信長
の目にかける。伊丹近辺に放火し城勢の
働きを押え、刀根山に布陣。
1578年12月毛馬取手に布陣。
1579年4月昆陽野古城の城番をつとめる。
1579年6月伊丹方面在陣の滝川一益・蜂屋頼隆・武
藤舜秀・惟住長秀・福富秀勝に対し、信長
から青地与右衛門を使いとして、はいたか
三足・このり二足が送られる。
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