昼食後、大山迄へ西に延びる尾根と別れ、高度を下げて南下した。
写真の様な斜面を横切る道の後は、尾根道を下っていく事になる。
危険箇所・注意点は少ない道だが、写真の箇所がその1つ。
地面が緩くて道が狭く、徐々に崩れている斜面。
何れ崩壊によって道の付け替えが必要となるのではないだろうか。
下りの尾根道はこんな感じ。
そこそこ急で、登りに使うと息が切れると思う。
下る分にはグングンとスピードを上げて下る事が出来る気分の良い道だ。
尾根道の木々の立ち枯れが気になるが、踏み固めや土砂の流出が原因なのだろうか?
右側に数箇所林業の作業道が有るが、敢えて入ろうとしなければ迷い込む事は無いだろう。
下り道で迷いそうな箇所は1箇所。
写真は通って来た尾根道から浄発願寺奥の院への道(左)に入る地点。
この辺りは尾根上に踏み跡が何本も有り、尾根のテッペンだけでなく、尾根の左側、右側を歩く事も出来る。
分岐の入口とその案内板は下っていた場合、尾根の左側に有るのだが、尾根の右側の踏み跡を歩いていると、この案内板を見逃す可能性が有る。
見逃してそのまま尾根を下って行っても、日向川迄続く尾根には登山道が無い。
又、この辺りは林業用の経路が多く有り、其れ等の入口には「立入り禁止」の看板が設置されているので、其処には入らない様に。
奥の院への道はこんな中腹を横切る小道。
広葉樹林帯で、鳥の囀りに耳を傾け、その姿を探していた。
別に「獲って喰おう」と考えている訳ではないし、動きの遅い人間には、飛び回る野鳥を捕まえるのは無理な事だ。
そんなに警戒しなくても良いと思うが、鳥達は我々を見ると囀るのを止めて逃げてしまう。
何とも寂しい次第だ。
我々2人が餓えている様に見えるのか?
鳥達からは、我々2人が「美味しそう♪と涎を垂らしながら彼等を見ている」様に見えるのだろうか?
確かにゆきさんの好物は手羽先だけれど・・・。
此処が浄発願寺奥の院跡の最も奥(登山道の終点)。
非常に栄えた寺だったそうだが、その面影は無い。
道の左側に並ぶ石塔は歴代住職の墓。
歴代住職の墓が並ぶ道の中央部には岩屋が有る。
この岩屋に篭って修行を行ったそうだ。
歴代住職の墓が並ぶこの一角は、この寺にとっても最も神聖で重要な場所だったのだろう。
そこで行う座禅・瞑想や読経と言うのは、非常に身の引き締まる物だったと思う。
岩屋の内部の様子がこの写真。
奥に石像や石柱が有る。
岩屋内には、寺を開いた弾誓上人の石像と、このお寺に葬られた尾張徳川家藩主の夫人や大名の墓石が並んでいる。
開祖だけでなく、其処に今で言えば有力な支援者と言うか、多額の資金を寄付してくれる人物の家族の墓石が並べられている点が世俗的と言うか現実的と言うか…。
岩屋内では、朝日が射し込む中での行や御神木で諸仏像を彫刻したとの事。
その岩屋も現在使用される事の無く、散策に訪れる人間が時折訪れるだけ。
ゆきさん 「動物達が雨宿りや休憩・棲家として使わないのかな?」
よし 「足跡は見付けられなかったけど、そう言う事も有るかも知れないね」
ゆきさん 「岩屋に入ろうとしたら動物が中に居たとか、読経中に動物が入って来た
と言う事は無かったのかな?」
よし 「当時はお寺の建物が彼方此方に建てられていて、敷地内には人が多く
居た訳だから、現在程周囲を動物達が闊歩する事は無かったと思うよ」
よし 「でも、一緒に瞑想(動物は昼寝)とか、そう言う事が有ったら面白いね」
岩屋を後にして麓に下りて行きます。
この道は元々お寺の中に整備された道の跡。
点々と石柱や石像が残されているが、往時の繁栄を窺わせる物は無い。
所々説明の表示が有り、「鐘楼が有った場所の跡」だとか、「地蔵が置かれた場所の跡」と言った内容が記されていた。
此れ等で現存する物は、現在の浄発願寺の有る地に有るとの事。
現在の浄発願寺は川沿いの平らな部分に建物が建てられているが、この地は斜面の細い経路沿いに大小様々な建物が建てられていた。
往時の様子を見てみたかったな。
経路を下りていくと、一際広い場所に出る。
此処だけが建物の跡が見て分かる場所だ。
此処は堂宇跡で、その土台部分や建物の周囲に張り巡らされた水路の跡が見て取れる。
写真左奥の緑の木々の部分も庫裡等の建物が有った場所で、本堂と併せてこの山中に有って非常に広くて立派な建物だった事が感じられる。
狭い経路を登ってきた先に有る非常に大きくて広いこの本堂の姿は、初めて来る人々を圧倒する位の存在感が有ったのではないだろうか。
写真中央の説明板には、説明の他に敷地を上から見た建物の配置図と斜め上から見た当時の建物のイラストが記されて居る。
写真が有れば良いのだが、イラストが有ると言う点では、往時の姿を感じる上で助かる。
非常に栄えたお寺の本堂も、現在は其処から樹齢何十年かの木々が生えている状態。
何れ木々で覆われてしまうのだろうか?
仏教用語ではないが、「盛者必衰・栄枯盛衰」と言う言葉が思い起こされる。
「全ての物は自然に帰る」と言う事を感じさせる光景。
此れも仏教らしいと言うか、人の歴史や存在らしい光景と言う気もする。
私も何れ土に還る。
まぁ、現在の日本は土葬でなく、骨を骨壷に入れるから厳密には土には還らないのだが、その時の流れや運命はどうしようも無い。
地球から見ればちっぽけな存在で、このお寺の跡より簡単にその痕跡は消え去るだろう。
唯、「何か」を遺したいと常々思っている。
毎年丹沢の三ノ塔周辺で行われる緑地再生の植樹への参加は、未だ実現していないが、其れも行いたい事の1つだ。
自分の植えた木々が根付いて森を形成し、生物の暮らす場になり、落とした種から次の世代を担う木々が生える・・・。
う~ん、ちょっとロマンチスト過ぎていて、私らしくないかな?
堂宇跡からは比較的幅の広い歩き易い道や写真の様なしっかりとした階段の経路となる。
階段を下りた所に案内板が有り、「五十三の石段」と記されて居る。
「四世空誉上人の代に駆け込んだ53人の罪人が一段ずつ築いた」
と記されていた。
このお寺は罪人が駆け込む珍しい寺で、殺人や放火と言った重罪以外は、寺に駆け込む事で罪を許されたとの事。
そうやって寺に駆け込んだ人々が罪を償う修行の中で作った階段と言う訳だ。
そう言う歴史が有る事を考えると何だか1段1段上り下りする際にも、その1歩1歩がとても大きな意味が有る様に感じられる。
この階段は古い物とは言え、状態が良い。
階段を下りると土の道と数段の階段が繰り返し有る幅の広いなだらかな道になる。
道の両側には所々石仏や石柱が有るが、大半は状態が悪くて往時の状況を感じ取れないのが残念だ。
山を下りきった場所の光景。
此処に山門が有ったそうだ。
道路が有る背後には、道路との間には川が流れていて、小さい橋が架けられている。
参道の幅を考えると、山門と言っても小さい物だったのではないかと思う。
そんな事を考えていると、背後(川の方)でガサガサと物音がし、何かが我々の直ぐ後ろを駆け抜けていった。
驚いて振り返ると、大きな雄鹿が山の斜面を駆け上がって行った。
どうやら橋の下付近の川沿いに居た様で、我々が下りてきた事で動くに動けなかった様だ。
そして我々が参道の方を見ているのを確認して
「今だっ!」
と、駆け抜けて山に逃げたのだろう。
唯、手を延ばせば触れる距離を駆け抜けられたのには正直驚いたのと同時に、全く鹿の存在に気付かなかった我々2人に、
「野生動物としては、我々人間は生きていけないなぁ」
と、改めて思い知らされた。
鹿が去った直後現れたのがこの犬。
首輪にアンテナ付きの発信機が取り付けられており、地面の匂いを嗅ぎながら辺りを常に早歩きでウロウロとしていた。
この犬は猟犬で、先程の鹿を追っているのでしょう。
其れで先程の鹿が我々が下りてくる迄河原でじっとしていた事に合点がいった。
猟犬から逃れる為に川が流れる窪みに身を隠したものの、猟犬が居るから人間が下りてくる音が聞こえつつも動くに動けなかったのではないかと。
今迄山で何度か猟犬の姿を見たが、この猟犬の姿には非常に感心した。
チラッと我々を見ただけで、早足で歩きながら地面の匂いを嗅ぎまわる事を止めようとせず、ずっと鹿の匂いを探して、辿っていた。
其れは我々がこの場を去る際も、猟犬の直ぐ脇を通る際も同じで、我々2人の動きを多少は気にしている感じも見えたが、自分が命じられた事に忠実だった。
う~ん、我々には到底真似出来ない動きだ。
私は食べ物の匂いに間違い無く反応してしまうし、ゆきさんは小栗旬や妻夫木聡が歩いていたら、任務を忘れてホイホイと付いて行ってしまうだろう。
鹿は鹿で命がかかっているし、猟犬も此れだけ一生懸命やっているのだから、成果が無い事で御主人に叱られては可愛そうだ。
両方を応援してあげたいが、2頭にとって良い結果と言うのは・・・。
此処から日向薬師バス停迄はアスファルトの道。
のんびり歩いていたら、背後から4台の警察車両に追い抜かれた。
行きに出会った捜索隊の方々だろう。
お昼休みには時間が遅いし、今日の捜索を切り上げると言うには時間が早過ぎる。
と言う事は、遭難者が見付かったと言う事なのだろう。
遭難者の安否が気になったが、TVや新聞のニュースでこの捜索について触れられる事は無かった。
少なくとも行方不明のままとか、死亡事故と言う事ではないのだろう。
この先料理屋さんの前の斜面で日向ぼっこ中の仔猫に出遭った。
上の子は明らかに小さい仔猫だが、下の子は上の子の体や枯葉で大きさが分かり難い。
仔猫なら兄弟だろうし、そうでないなら親子だろう。
う~ん、何ともほのぼのとした光景。
でも、ずっと見続けているにはこの日の気温は低いし、バスの時間の気になる。
昼寝の邪魔をしては悪いので、
「元気でな」
「仲良くするんだよ」
「春から秋は、其処もヒルが出ると思うから気をつけろよ」
等など、話し掛けてその場を後にした。
この道沿いに有る名所の1つがこの墓所。
壬申の乱で無くなった大友皇子の墓所と伝えられている。
大友皇子は、天智天皇の子で、天智天皇の後継者を天智天皇の弟である大海人皇子と争って敗れた。
壬申の乱は672年で、この石塔は調査の結果鎌倉時代の物との事で、時代が合わない。
鎌倉時代にこの地方の有力者が此処に大友皇子の墓所が有る事を聞き、石塔を建てたと言う伝承が遺されているが、それならば説明がつく。
事の真偽は未だ不明だが、こう言った著名人の墓所は全国各地に有る。
義経の側室の墓所が私の実家が有る神奈川県座間市に有るし、護良親王(後醍醐天皇の息子)の妻が亡くなったと言う場所は、山梨県の上野原市に有る。
他にも京都から遠く離れた関東や東北にはそう言った地が多く有るし、平家の落人やら甲斐の武田氏の配下等、敗残兵が逃れて作ったと言われる集落の存在が多々伝わっている。
その多くが眉唾物だが、当時の辺境地帯で綺麗ないでたちの旅人が亡くなった際には、「この方はきっと京から逃れてきた○○やその関係者では」等と言った噂話になるのだろうし、其れがそのまま構成に伝えられて著名人の墓が乱立する事になるのだろう。
でも、何れも本当はどういった方々だったのだろうか?
想像するだけで多くの物語、ストーリーが作れる。
然し、残念ながら私は、見た目・内面共に「高貴・品が有る」とは言えないし、人が羨む様な美形の良い男でもない。
高貴と言うより好奇な目で見られそうだから、行き倒れても親切に介抱される事にはなりそうもない。
道に迷っても、お握りや行動食を食べ尽くしてお腹が減っても、逆に食べ過ぎて動くのが苦しくても、自分の足でちゃんと家に辿り着かなければならないな・・・。
そんな事を考えながら、「アスファルトの下り坂は矢張り疲れるなぁ」と感じながらの
バス停はトボトボ歩きでした。
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今年の夏は暑かったですね(未だに暑いですが…)。
暑さは苦手ではないのですが、残業の多さで参っていて、8月は山に行きませんでした。
毎週の様に山歩きをしていた10年程前は、四季を通じて丹沢各地を歩き回っていましたが、山へ行く回数が激減している現状です。
そして東丹沢はヤマビルが増えてしまい、足を踏み入れる事に躊躇してしまう場所が増えましたね。
ヤマビルを気にせずに歩き回れた頃が懐かしいですね・・・。