ときどき変なことを考える。
「僕は死ぬまでに何冊の本を読むだろうか?死ぬまでに何本の映画を見るだろうか?死ぬまでにどれだけの風景を見るだろうか?」と。
世の中には僕の知らない風景、僕の知らない物語が一体いくつ存在するのだろう、、、、
幼い頃母親に連れて行ってもらった映画がある。
もうタイトルすら覚えていないが、はるか大昔の中東を舞台にした物語であったと記憶している。
主人公の若者がある日、通りすがりの男から、山の向こうに“真理”というものがあると聞かされる。若者は自分の目で“真理”を見届けるために旅に出る。
ところが、山を越えども越えども一向に“真理”は見つからない。
幾多の苦難にもめげず、しかし若者は“真理”を求めて歩きつづけるのである。
高校時代、数こそ少なかったが僕は何人かの良き友人に恵まれた。
僕の高校は山の上にあった。放課後、クラブが終わると何人かの友人達と、とっぷり日の暮れた山道を自転車を押しながら帰った。
ませたガキだった僕らは山道を下りながら、世の中に“真理”なるものが存在するか?などといった話を熱っぽく語り合ったりした。
映画好きだったその頃の僕は、当時の映画少年の多くがそうであったように商業主義的ハリウッド映画を拒絶しヨーロッパ映画に傾倒していた。
ゴダール、トリュフォー、アラン・レネ、ブニュエル、ルイ・マル、コクトー。
ビクトール・エリセ、ワイダ、ベルイマン、フェリーニ、ヴェンダース、ヴィスコンティ、タルコフスキーなどなど、、
あらゆるヨーロッパ映画を僕は貪るように観た。
がらがらの映画館の後ろの席に独りで座って観るヨーロッパ映画が僕にとっての映画であった。
エンターテイメント性を排し、あるときは破滅的、あるときは悲劇的、そしてあるときは退廃的であり寓意的、そして時に観念的であるもの、それが当時の僕にとっての映画であった。
しかし、時代が流れ、平均的人生の凡そ半分を生きてしまった今の自分にとって、その当時のこだわりが逆に足枷のように感じられるようになった。
モノの価値を決めるのは自分自身ではあるけれども、真に価値あるものを僕はあまりに知らなさ過ぎる。
僕は世の中の一体何を見、そして何を知っているというのか?
件の映画の主人公の若者は映画のラストで“真理”の在り処を知るという老人と出会う。
老人は、若者をある丘の上に連れてゆく。
丘の上で若者は一枚の鏡を目にする。
「どうじゃ、若者よ!そこに何がみえる?」と老人は尋ねる。
若者は、鏡に映し出された自分の姿をみてこう言う。
「真理です、、真理が見えます」と。
人の作り上げてきた価値ある物語を僕は見つけ出す努力をしようと思う。見知らぬ風景を見つけ出す努力をしようと思う。
これは、薄れゆく僕自身の存在に対する反逆でもある。
そして、それら価値あるものとの関係性の中においてはじめて僕自身の存在は意味を持つに違いない。
「僕は死ぬまでに何冊の本を読むだろうか?死ぬまでに何本の映画を見るだろうか?死ぬまでにどれだけの風景を見るだろうか?」と。
世の中には僕の知らない風景、僕の知らない物語が一体いくつ存在するのだろう、、、、
幼い頃母親に連れて行ってもらった映画がある。
もうタイトルすら覚えていないが、はるか大昔の中東を舞台にした物語であったと記憶している。
主人公の若者がある日、通りすがりの男から、山の向こうに“真理”というものがあると聞かされる。若者は自分の目で“真理”を見届けるために旅に出る。
ところが、山を越えども越えども一向に“真理”は見つからない。
幾多の苦難にもめげず、しかし若者は“真理”を求めて歩きつづけるのである。
高校時代、数こそ少なかったが僕は何人かの良き友人に恵まれた。
僕の高校は山の上にあった。放課後、クラブが終わると何人かの友人達と、とっぷり日の暮れた山道を自転車を押しながら帰った。
ませたガキだった僕らは山道を下りながら、世の中に“真理”なるものが存在するか?などといった話を熱っぽく語り合ったりした。
映画好きだったその頃の僕は、当時の映画少年の多くがそうであったように商業主義的ハリウッド映画を拒絶しヨーロッパ映画に傾倒していた。
ゴダール、トリュフォー、アラン・レネ、ブニュエル、ルイ・マル、コクトー。
ビクトール・エリセ、ワイダ、ベルイマン、フェリーニ、ヴェンダース、ヴィスコンティ、タルコフスキーなどなど、、
あらゆるヨーロッパ映画を僕は貪るように観た。
がらがらの映画館の後ろの席に独りで座って観るヨーロッパ映画が僕にとっての映画であった。
エンターテイメント性を排し、あるときは破滅的、あるときは悲劇的、そしてあるときは退廃的であり寓意的、そして時に観念的であるもの、それが当時の僕にとっての映画であった。
しかし、時代が流れ、平均的人生の凡そ半分を生きてしまった今の自分にとって、その当時のこだわりが逆に足枷のように感じられるようになった。
モノの価値を決めるのは自分自身ではあるけれども、真に価値あるものを僕はあまりに知らなさ過ぎる。
僕は世の中の一体何を見、そして何を知っているというのか?
件の映画の主人公の若者は映画のラストで“真理”の在り処を知るという老人と出会う。
老人は、若者をある丘の上に連れてゆく。
丘の上で若者は一枚の鏡を目にする。
「どうじゃ、若者よ!そこに何がみえる?」と老人は尋ねる。
若者は、鏡に映し出された自分の姿をみてこう言う。
「真理です、、真理が見えます」と。
人の作り上げてきた価値ある物語を僕は見つけ出す努力をしようと思う。見知らぬ風景を見つけ出す努力をしようと思う。
これは、薄れゆく僕自身の存在に対する反逆でもある。
そして、それら価値あるものとの関係性の中においてはじめて僕自身の存在は意味を持つに違いない。
“ひかりのまち”は気楽な気持ちで観て欲しいですね。ほんとに他愛のないテーマを扱った映画ですから、、
アメリカ映画のような仰々しさがない分、繊細さは感じられると思います。
東京の乾いた生活に疲れたときに観るといいかもしれません。
僕も大好きです。
ちなみに僕のベスト映画はなんだろう?
あらためて考えるとなかなか難しいもんですね、、個人的にはミツバチはかなりいい線いってますよ。
近いうちに好きな映画の話はブログに書こうと思ってます。
ちなみに札幌みたいな大都市でもがらがらなんてことあるんですね。結構意外かも。
あまり映画を見る方ではないので、
ほとんどの映画をしらないのです・・・・
時間があるときに幾つかつまみ食いをしてみたいと
思います。とりあえず、中古屋で購入したひかりのまちを。
今週末が暇でありますように・・・。
因みに、私のいっちばん好きな映画は
「ベルリン天使の詩」でこのときは
がーらがらでした。
あの映画が僕の実家のある金沢で公開されたときは、ほんの2週間ぐらいしか上映してくれなかったんです。
映画館に2回ほど足を運びましたが、そのたびにすごく空いてて、金沢ってなんて田舎なんだろうって思った記憶があります。
そういう映画を見たがる人が少なかったんでしょう、、
高校時代東京に遊びに来て、六本木のシネヴィヴァンという映画館でゴダールの“カルメンという名の女”を見に行ったとき、めちゃこみだったのを観てさすが東京は違うなーと感心した記憶があります。
まあ、どうでもいい思い出ですが、、、
私大好きな映画の一本です。
なんか、御伽噺みたいな・・・不思議な映像ですよね。
“ミツバチのささやき”が思い出に残っています。スペイン内戦の頃のお話ですが、なんというか、、ちっちゃな妖精達の姿を垣間見てしまったような感じとでもいうか、神隠しにあってしまったような感じとでもいうか、、、とにかく素晴らしい映画です(なんのこっちゃ)。
ちなみにそのオムニバス映画も見てみたいですね是非。
>ビクトール・エリセ
今年の2月、10minutes elderというオムニバス映画を東京・恵比寿で観て、その中の1本に圧倒されて、上映後にパンフを見たらそれがエリセの作品でした(※予備知識なしで観た)。
名前だけは知っていたのですが、本当に息をのみました。
不思議な表現だったんだ・・・
普通だと思ってた・・・と、その時も
言った気がする・・・。
やっぱり不思議な表現なんだ・・・。
聖書では、大雑把に言って、
イエスキリストが神の子で、
自分の罪ために死んで、
3日目によみがえられたことを
信じるなら、永遠の命を持ち、
天国に行くことが出来ると
言います。
だから、クリスチャンにとって
人生は永遠分の・・・という話になるわけです。
有名なPrecious LordもAmazing graceも
Saints go marching inもSwing row Sweet cheriotもそのことを歌っています。
あれ?そんな話じゃなかったかな?
人生には、もともと意味などは無い。
その人なりの生きる意味を探す道のりが、即ち人生。
なんだか、逃げを打っているような文章なのですが、
何となく気分が楽になったりもしました。
かならず、絶対、そうあらねばならない人生の姿など
もともと無いのだから、自分なりにやっていけばいいさ、
と、いう感じで・・・
同様に、万人に共通の真理も、もともと無いのでは
なかろうか、などと、思っています。
無論、すべて成り行き任せで let it be とも思いませんが。
自分なり、を探す努力をしないと、単なる思考停止かも、
とも思って、日常のなかふらふらとしております。
こんな、独り善がりの情緒的な文章にコメントが来るなんて思いませんでした。うれしいです。
>>私は「人生の中でどれだけの人と出会えるんだろう」
と考えたところから、イギリスに行きましたよ
その気持ち分かる気がします。
今、自分も似たような心境かもしれません。
ただ、、どちらかというと少しネガティブな感覚に近いかも。
生き急いでいる感覚っていうか、、焦りに似た感覚っていうか、、そんな感じかもしれませんね。
生きている証がなんであるか??なんてことを考えていると自分には「もっともっと知るべきことがたくさんあるはずなのにー」て思っちゃうんですよねー。
>>真理を見出すって、人にとって永遠のテーマなんでしょうね・・・。
僕は、実は“真理”なんてモノがこの世に存在するとは思っていない人間の一人なのですが、、、
“真理”に辿り着けるか否かということよりも、むしろこの映画の主人公のように“真理めいたもの”を探して右往左往する、その過程が人間の真の姿ではないかと思っています。
そういう意味では鏡の中の自分に“真理”をみた主人公の若者はすでに悟りの境地に達していたのかもしれません。
分母に“永遠”を置くっていう発想は僕にはまだまだ難しいような気がします。
勉強不足で分からないのですが、
キリスト教的には、人は死んでも永遠に生きるものなのでしょうか?
“死ぬまでのお付き合い”だなんて確かに不思議な言い回しですね。
永遠のテーマなんでしょうね・・・。
私は「人生の中でどれだけの人と出会えるんだろう」
と考えたところから、イギリスに行きましたよ。
自分がじっとしていて出会える可能性のある人数より
自分が出ていって出会える可能性のある人数の方が
多いんじゃないかと・・・。
あるとき、私の喘息の話になったとき
「ま、死ぬまでのお付き合いだから」
と言ったら、
「それって典型的なダイアンだよね」
って言われました。
「普通は『一生のお付き合い』って言うんだと思うよ」
って。
ここで何を言わんとしていたかというと、
分母に何を置くかってことなんだそうです。
人生を分子と考えるとその下の分母は何か。
私はクリスチャンなので、分母は「永遠」となるわけです。なかなか上手いことを言いやがると感心しました。
話がずれていたらごめんなさい・・・。