また病院での経験から。
病院にも投書があって、患者側からのクレームに対応しようとする。たまには感謝の言葉もあったので、クレームばかりというわけではなかったのだが。
よく投書でクレームの対象になる医者がいた。整形外科の医者である。僕のような外部の業者にも当たり前のように声をかけてくれる医者だったので、なんでクレームが多いのかと不思議に思っていた。クレームの内容も「態度が悪い」みたいな事だったからだ。
ある時、窓口に70前ぐらいの女性がやって来て、僕に声をかけて来た。雑談をしている中で、この整形外科の医者の話をして来た。要約すると、「失礼な医者だ」という指摘である。その中身は、ヒザ痛に悩まされているので診察を受けていたが、単なる老化だと診断されたという。老化とは失礼だと憤慨しているのである。
70前のヒザ痛が老化だとして、他の疾患ではないとしたら、喜ばしいことでさえあるだろうと思って、「自然なことだっていうことですよねえ」と僕が話すと、大いに不満な表情を浮かべて、帰って行った。歳をとったという事実自体が認めがたいことなのだろう。
たまたま、この先生とこの話をしたところ、「本当のことを言うと、怒られちゃうんだよ」と笑っていた。そこで「正しい診断ではなくて、患者が求める診断をしなければならないとしたら、消費者の需要に合わせて、商品を提供するようなものですね」と返したところ、「医療はそうあってはいけないと僕は考えるけど、そういう傾向が強くなっていると思うなあ」と。
医療的な診断が商品になっていい訳はもちろんない。
そのような共通了解をした上で、「でも実際は、お若いですよねえとでもいえばいいじゃないですか」と言ったところ、その医者は「そういうの出来ないよ」と笑っていた。僕はこの医者が結構な人格者であるとの印象を持っている。
ここで求められるのがコミュニケーション力なる最近流行りの思考である。でも結局患者を消費者と位置付け、患者が心地よいように、こちらが感情労働していくことになる。そこで、僕は半ばふざけて「実際は、お若いですよねえ」というお世辞を想定したのである。
そもそも老化とは自身の身体の衰えや不自由さの進行を頭で後追いすることだと思う。そこで心と体の折り合いをつけるのが人間の知恵であろう。しかしながら、老化自体を認めなければ、そのような知恵は生まれず、「若いということこそが素晴らしい」という偏見に包み込まれてしまう。またお世辞をいえば、このような偏見を助長することにもなる。
ただ、かの70前の女性が不満を抱いたのは、少なからず自らの老化を意識していたからに違いない。それにしても、僕たちの生きる社会は気を使いすぎてはいないだろうか。多少不快なこと、不満を受容する力が失われている。そもそも自然には不快な部分があるものである。このような受容力を「社会的免疫力」とで名付けてみようかと考えている。結構汎用性がありそうだ。