飲食店やコンビニなど食べ物を扱うお店で、その食べ物を粗末に扱って、SNSに投稿した「悪ふざけ動画」が問題になっている。前はバカッターと言っていたと思うが、現在はバイトテロという言い方がなされているようだ。
企業が責任を問われるだけではなく、当の悪ふざけをした人物への非難が法的問題にも発展している。実際に実証するのは難しいのではないかと思うが、お店というか企業の利益損失、信用失墜などの具体的な損害が生じていると考えられるため、損害賠償が請求されるようである。
ネットでは「これで人生終わり」などと言われてもいるが、若者の悪ふざけが人生を破壊するかのような社会がいいのかと疑問を持ってしまう。まあ、そのように言われる「終わる」「人生」って短絡的な人生観ではあると思うが。
実は僕と関わりのある大学生がやらかした可能性があるようなので、今回少し考えて見ることにした。
少し古いが、Web2.0と言われ、誰もが送り手になることが可能であると喧伝された時期があった。テレビを代表とするマス・メディアでは、市民は常に受け手であり、そこにこそ市民の受動性の最大の原因があると考えられていた。そういう時、市民ではなく、受け手は大衆とされた。そこにBlogなど新しいメディアが登場し、自らが送り手になることができるとして、大きな期待がかけられた。
ちょうど総表現社会の到来と言われ、大きな資本を持たない市民が自ら情報を作り、情報の発信元になることができるようになった。情報の発信ができること自体が市民の主体性であると素朴に信じるものもいた。
しかしながら、情報は送れば、見られるのである。ここに「見るー見られる」という権力関係が生み出される。この関係が心地よい関係性を保っていれば、なんてことはないが、「見られる」のだから、必然劇場化したり、監視社会化される。
劇場化は「受けを狙う」という点で理解しやすいのではないだろうか。誰かに「見られる」ということを内面化すると、素のままというわけには行かなくなってしまう。まあ、その延長線上に「悪ふざけ動画」があるのはわかりやすい。
そして、自ら色々と表現していると思っているが、実は同時に監視が作動する。監視社会化に関しては、フーコーの一望監視装置(パノプティコン)モデルから接近できる。パノプティコンについては詳細は省くが、近代社会の権力のありようを可視化したモデルである。刑務所も病院も、教育も工場もこのモデルから理解できる。
SNSにおいては自由な表現をしているつもりが、同時に多くの人から監視されているわけだ。SNSを見て楽しんでもらっていることと監視は表裏一体となっている。
(つづく)