Drマサ非公認ブログ

バイトテロと共同性⑵

 パノプティコンにおいては、正常と異常が二分される。正常な者が異常な者を監視し、矯正することで、異常な者が正常な者に変われるとする。教育も病院もそのような機能を持つ機関である。

 SNSという空間においては、同様正常な者と異常な者が二分される。ここで取り上げている事例では、異常な者は「悪ふざけ動画」をあげる若者である。正常な者は「悪ふざけ動画」をあげる者を異常な者と位置付けることになる。

 よく取り上げられるが、「昔もあのような悪ふざけをしたものですよ」と指摘される。それは「悪ふざけ」している若者もまた、正常な者であるとか、若い時はそうであっても、大人になれば正常になるとの了解があったからだ。

 それこそ、明治時代の東大の学生はバンカラで、「悪ふざけ」をしていた者だが、世間から大目に見られていた。その意味で。若い時の「悪ふざけ」は正常な者の一時的に通る正常な行為に見られていた。

 では、昔の東大生の「悪ふざけ」と現在のSNSを利用した「悪ふざけ動画」の違いは何だろうか。もちろん、SNSというメディアがあることだが、それだけで理解できる違いではない。というのは、世間という点では両者に違いがないからだ。

 そうすると、世間とか社会というものの変質を見ておく必要がある。東大生の「悪ふざけ」は見逃され、大目に見られた。考えてみれば、よく指摘される「昔もあのような悪ふざけはあったよね」という状況もまた、同様大目に見られたのである。中には大人が叱責するなどお灸をすえたが、しかしながら、多めに見られていたこと自体に違いはない。

 とすると、実はこの二つの事例においては社会が成立していたと言える。「社会が成立していた」というのは、以前取り上げた本ブログの「20年前、田舎者の母親が東京にきた⑴〜⑶」で取り上げた社会観を適用したものだ。社会とは仲間や共同という意味がその原理なので、仲間に対する態度、姿勢が決定される。

 だから、昔の東大生の話、一昔前の若者の「悪ふざけ」は仲間内のことというだけではなく、共同性が成立している中での出来事であった。だから、仲間のやることを多めに見るのは共同性が成立しているからである。

 とすれば、バイトテロの問題は、共同性が成立していないことの現れと見なすことができるはずである。

(つづく)

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会問題」カテゴリーもっと見る