今少し具体的な場面を思い出していこう。
あなたに非常に高齢な家族がいて、寝たきりの状態が長いこと続いている。このまま植物状態でも、現代医療ならまだまだ生き長らうことができる。現在の医療なら、医者がそこで家族に生命維持装置を続けるのか否かを尋ねることになる。
当然、生命時装置を切ってしまえば、あなたの家族は死ぬ。生命維持装置を続ければ、兎にも角にも生きていることはできる。では、死に間際といっていい当人にとって、どちらの選択が「よく生きる」ことになるだろうか。通俗的な物言いに変えれば、どちらが幸せなのだろうか。
そう簡単には決められないだろう。このような事例に大西さんの考えを当てはめて行くと、生命維持装置につなげられて生きているだけでは「命のためと言いながら、個人の尊厳を奪ってることが多いように見える」と考えている。
ただ個人の尊厳とはなんだろうか?その人物の意識とは別のところで、彼の生命が維持されていることが個人の尊厳を傷つけるのだろうか。それなら、個人の尊厳とは個人の意識の有無が条件となることになる。そこでは個人が絶対化されているので、それはあり得ない。なぜなら、個人は個人としてだけ存在するのではなく、他者との関わりにおいて存在するからである。
(ちなみに人間の尊厳については僕の次のブログを参考にしてほしい。
「辺見庸『月』を読んで思い出したこと」)https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/948a5d809231a1777336d3f2fdbee8ab
大西さんの視角の問題性はこのような個人の尊厳という問題に安易に経済合理性を適応してしまうことにある。次が彼の発言である。
「高齢者を……死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策を取ってると、これ多くのお金の話じゃなくて、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これは若者たちの時間の使い方の問題になってきます」
彼の発言は高齢者の医療費(つまり社会的負担)と若者たちの時間を交換できるものとしている。それを可能にするのが実は経済合理性、つまりコストとベネフィットの関係にある。しかしながら、個人の尊厳の問題であるから、何かと交換したり、損益計算の対象になるような問題ではない。それを可能にするほど経済合理性は人間が「よく生きる」ことにならないのは説明不要でさえある。しかしながら、こういう考えは頭のいい人ほど行うような気もする。
大西さんはこの問題を「政治の選択」として行うべきとしている。しかし、これも短絡的である。
先ほどの生命維持装置を切ってしまうかどうかという場面に立ち返ってみよう。ここで決断できるのは家族など最も親身な共同体になる。彼らが決断する時、どれだけの迷いを抱え、みんなでそれらを共有し、逡巡しさらに逡巡し考えるのか考えてみたらどうだろう。あるいはこういう状態になるまで一緒に生きてきたという歴史があるのだ。
ゆえに決断する主体になれるのだ。それでもやはり、自分たちの決断が正しかったかどうか悩み続けるだろう。そして、その思いを共有する人たちと時を過ごすことになる。
こういうプロセス(ここではあえて歴史といった)があり決断することができるというのに、それを政治が介入して決めてしまえというのは暴言である。そんなことはルールかできないのだ。そして、そういう不可解がこの世にあるのだ。あえていえば、政治が内心の自由に介入することでもある。家族が逡巡し逡巡することは内心に他ならない。
おそらく大西さんはれいわ新撰組に属しているのだから、政治が内心に介入することに反対のはずだ。実はこういう問題として整理して行くことができると思う。
しかしながら、より問題は彼を「即除名せよ」という拙速な考えの方にあると思う。