Drマサ非公認ブログ

大西つねきさんの命の選別発言について(後半)

 大西さんの「政治が高齢者の生命の選別をすべき」との発言が非難された。僕自身も誤りであると考える。「生命の選別」自体が優生思想であると解釈されたわけだ。

 そこで前回の生命維持装置で生き長らえている人の話に戻ってみよう。医者から選択を迫られた家族が、考えた末に泣く泣く生命維持装置を外して、「楽にしてやってください」と決断したとしよう。

 そこに優生思想に断固反対する人物が入ってきて、「生命の選別」をしてはいけないと言ったとしよう。「あなた方の選択は生命に優劣をつける優生思想であり、人類の敵である」と。

 なんかおかしいだろう。仮にこのような発言をした人が赤の他人であったら、なおさらおかしいと思うはずだ。つまり優生思想かいなかということではなく、まさしく生命倫理の問題である。両者は重なる部分があるので、そこを解きほぐす必要があるだろう。

 僕は優生思想に大反対だ。しかし、このような現場は優生思想が適応される場面ではない。自分の父親が高齢でどうにか生命維持装置で生き長らえている。それをこれまで支えてきた。苦労も多かったし、複雑な思いを抱えながら、今ギリギリの決断をするのだ。

 そういう状況と無関係に優生思想であるとか、生命の選別であるとかを適応していいとしたら、それはファンダメンタリズム(原理主義)である。このような場面で原理主義を適応させるとすれば、(キリスト教的な意味で)宗教的であり、拙速な反応である。

 僕が彼の言葉を読む限り、確かに優生思想として理解されてしまう文脈を作っているのは確かだ。その上で、「高齢者を……死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう」考え方自体への批判も含まれている。この批判は「ただ生きる」ということを価値とすることに対してであるから、生命を量的に規定することができない側面を持つとの含意にもなる。

 これら大西さんの言説から見えるのは、じつは優生思想とは異なる文脈(つまり「ただ生きる」思想への批判)をも併せ持つことなのだ。

 ファンダメンタリズムは状況と無関係に適応される。あらゆる文脈、文章の中にある多様な価値意識を1つに固定しようとする。この例では、優生思想として捉えられる文脈、生命を量とする価値観への批判の文脈、経済合理性の文脈などが絡み合って発言が構築されている。これらの複雑な文脈を1つの文脈、ここでは優生思想へと回収しようとするのもまた権力なのである。

 大西さんを批判する人たちにはそのような匂いがあるように感じる。大西さんの思考には医療技術でただ生き延び続けるという人生に対する疑問があったのだろう。ただそれを政治の問題として解決すべきことかどうかは慎重でなければならない。

 僕の考えでは、社会システムとして、法律として決めるべきことではない。それは法律ではなく、「よく生きる」ことを問うという水準の倫理である。つまり人と人の関係性の中で培われる歴史的、状況的にどうにか紡がれる人々への問いとして存在している。

 「大西さんを排除せよ」という意見もあるようだ。確かに大西さんは拙速な意見を抱いてはいた。しかしながら、彼もまた時間的な存在であり、その意見を反省し、より深く考えることができるかもしれないのだ。彼自身、優生思想として受け取られるような意見であったことを反省している。

 今ここで必要なのは排除ではなく、寛容である。先の言説の理解を持ち出すなら、優生思想とは異なる文脈にある言説の意味をつかみ出すことだ。そのためには排除ではなく対話が必要だ。より思想を深める機会でもある。

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