Drマサ非公認ブログ

喫茶店、1人かみんなでか

 昨日、カナダから帰国した。

 帰国直前、トロント空港近くの軽食レストランに入って、腹ごしらえをしたのだが、その時に感じたことを少しばかり記しておこうと思う。

 ただ軽食とは書いたものの、日本人には大食である。朝ごはんだというのに、目玉焼きは3つ。どうもカナダだとこれが標準のようだ。さらにベーコンが大量。日本のスーパーで売っているベーコン1パックが1皿に普通にのっている。それにソーセージやポテトフライまでついていて、それも量が多い。見ただけでお腹一杯である。パサパサの食パンも4枚。

 食べる量が違うなあと感じながら、「これじゃ西欧と戦っても勝てないわ」などと冗談めかして話していたが、考えてみれば中国人も食べる量は多いなあと思いだしていた。

 ただ感じていたのは食べる量の話ではない。そこにいる人たちの元気さというか、みんなが大いに話をして楽しんでいたことである。日本のように若者がいても、スマホばかりいじって、「話してないじゃん」などと感じるようなことはなかった。若者もまたよく話をする、そういう印象である。

 コーヒーショップにもよく入ったが、そこでもお茶しながら、よく話をしている。そこで思い出したのが日本のコーヒーショップの光景である。

 ドトールに入ったとする。そうすると2人用のテーブルがあって、一方は壁側に座席があり、もう一方は椅子がある。そうすると、壁側にのみ人が座り、お茶をしたり、勉強をしている。通路側の椅子に人は余り座っていない。よく見かける風景である。一番の特徴は1人で利用しているという点にある。俯瞰してみると、意外に違和感の生じる風景だと思う。

 日本では、コーヒーショップは1人で利用するための空間なのである。1人でほっと一息つく場所、休憩の場所である。また1人であるという点で勉強する場所にもなる。僕自身だって、1人で利用して、本を読んでいることが多い。

 カナダのそれも同じく休憩の場所である。もちろん労働の場所ではないからだ。ただ人々は休憩を取るのに1人で取るのではなく、数人で訪れ、そこで話をする場所のようである。休憩は1人でするものではなく、小さなコミュニティーをコーヒーショップに再現し、みんなでするものなのである。

 かの軽食レストランもみんな会話を楽しんでいた。1人で食事するものもいたが、総じて「みんな」が形成されているように思われた。そして、会話自体が楽しいもの、人とコミュニケーションするのが楽しいものとして、僕の目には映った。

 中年女性3人組がコーヒーショップにいたのだが、テーブルに飲み物もなく、話し込んで笑っている。「注文しないで、占有していていいのかなあ」と思いながら見ていたら、20分ぐらい話したのち、やっとカウンターで注文して、席に戻った。その後も食べながらずーと話をしていた、

 みんなでいて話をすることが楽しみであるといこと。それが当たり前のように日常に組み込まれていて、それ自体が心の解放にもなっていること。日本の共同性の違い、というか共同性の希薄化がこんな場面から感じてしまったのだが、おかしいだろうか。1人でいたいと思わせる社会のありようには考えるべきこともあると思う。

 孤独と孤立は違うが、1人が孤立の一歩手前ではなければいいけれどと思ったりする。みんなでいるよに見えても、スマホというデバイスによって、カプセルを作り出し1人になっているとしたら、みんなとは一緒にいるわけではないだろうなと思う所である。これはスマホのせいではない。僕たちの社会が求める共同性の質の違いなんだろう。

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