カナダで感じたことから。
色々あるのだけれど、あらゆることが大雑把であることを取り上げておこう。
ちょうど日曜日にテレビを見ていたら、日本の職人がカナダに行って、マンションの一室を改装するという番組があった。ちゃんと見ていたわけではないのだけれど、もちろん「日本は素晴らしい!」というテイストで作られていた。
キッチンやお風呂を日本風にアレンジし、細やかな工夫を凝らし、当の住人、それを依頼した日本在中のカナダ人の女性がその技術や気遣いに感心し、両者の絆が描かれるというものだ。ここで感動ポルノだと批判する気はないが、このテイストの番組が多いなとは思っている。
そこにカナダの職人がいて、日本の職人の細やかな技術に驚嘆していたのだが、しかしながら、彼らは大雑把なのかもしれないが、それで十分にやっていけているわけで、そうすると、生活に問題があるというわけでもないことを確認しておいてもいいだろう。
僕自身、カナダ滞在中にあらゆることが大雑把だと感じていた。娘の家に泊まっていたのだが、家の作りもまた大雑把だと思った。
部屋のドアの立て付けが悪い。シャワーの位置が高過ぎて、シャワーヘッドが天井にくっ付いていて、使いづらい。庭先玄関のところが木の部分と土や芝生の部分があるあるのだけれど、その繋がりがデコボコだったりする。日本の家ではありえないいいかげんな作りだと思う。ただ出入りするのにたいした問題があるわけではない。まあ、細やかな作りではないということだ。
ところで、そのような細やかさがないことが問題であろうかというと、そういうわけではない。なんせ気にしていないのだから、大雑把で良いのである。
というのは日本と比較すると、空間性の違いが明確なのである。簡単にいうと、もともと広いのである。もともと広いわけだから、土地や空間を贅沢に使えるわけである。そのため、モノをドンと置けばいいのであって、狭い空間にやり繰りしながら、どうにか収納したりする必要がないのである。日本には収納上手な人がテレビに出てくるが、そんな人物の需要自体がないわけである。
という見方をすると、先にとりあげた日本の職人さんの細やかな技術はカナダでは現状不要なものだということだ。テレビでの事例はある意味で特殊事例であり、テレビ的な演出の中で作り出されたことでしかないだろう。
ただ、日本的細やかさが付加価値としてカナダ人の心に組み込まれれば、需要となるかもしれない。まあ住宅や空間の記号性を高めるように思われれば、広がる可能性がないわけではないだろう。そうすると、お節介なPR戦略が出てくるのかもしれないし、このテレビ番組自体がその前段階に位置付けられるのかもしれない。
でも、この大雑把さで十分豊かな生活をしている。そもそも大雑把さが今の日本人にはない大らかさに繋がっているようにも思うので、いらぬお節介に過ぎないのかもしれない。
以前、お笑い芸人が外国の施設でシャワーの勢いが悪いところが多いと嘆いていたが、そんなことどうでもいいことだろう。その与えられた環境でどうにかやりくりすればいいいのであって、そのようなやりくりすることを自然な態度で受け入れる力を失っていると思う。
システムが不快を回避し、常に便利や快適を提供すること当然のこととする姿勢に僕自身は違和感を持っている。