僕はそろそろ齢60。
日本の風景も価値観も変化し続けてきている。そう感じる今日この頃。
端的なのは、金銭に対する感覚。明らかに今の時代の方が、お金を重要とする意識が肥大化している。「よ〜く考えよう。お金は大事だよ」とはCM。一昔前なら、大ぴらに言うのは憚られた。
そういえば、子供の教育にも金融や投資を学ぶというのが組み込まれているようなので、子供のうちから、そういう意識が構築される。
別にお金が大事じゃないと言っているわけではない。お金より大切なものがあるというだけである。
「まあ、なんとかなるさ」という庶民感覚が後退して、お金で人を評価するのが当然のようになってきている。やはり変化している。
社会学者の宮台真司さんが、今の日本社会を批判して「損得マシン」という言葉を使う。人間には愛情とか友情とか、誠実とか、真実とか、いろいろな価値がある。でも、そんなものはお金の前では、大して意味がない。そこで、そのような認識が広がる社会では、損得で物事を判断することになる。
そういう判断、価値観、宮台さんは皮肉を込めて、そのような人間を「損得マシン」と名付けているようだ。普通にいえば功利主義だから、新自由主義的価値観は「損得マシン」と同値だろう。
これを過去の価値観と照らせば、いつの間にか人々が有する価値観の閾値が下がってしまったのだ。
では、どのような価値観が消失していく過程にあるのか。それは「お天道様が見ている」という言葉で表現される人々が素朴に持つ価値意識、道徳的宗教的感覚である。
これは、「お天道様が見ている」というのが科学的真理ではないということと、「お天道様が見てる」という価値意識が排中律ではなく、異なる水準のカテゴリーにあるので容中律で矛盾成立させるということである。
僕の父親は僕が10歳の時事故で亡くなった。それ以来だろうか、それ以前にもなぜだかあったと思うのだが、「亡くなったお父さんが見てる」という思いをいつも心の何処かに抱えていた。
「お天道様が見てる」という抽象的な思いに少し具体性が加わって、「お父さんが見てる」という、金銭では測ることの出来ない「なにがしか」があるとして生きてきたように思う。金銭を超えている、超越的価値。この超越性こそ、人々が生きるための道徳の源のようである。
一体どういう価値観だろう。「悪いことをするな」ということであるけれども、僕は「お父さんに見られて恥ずかしい生き方は出来ない」という誠実であったのだと考えている。
西欧なら「神様が見てる」と同じ機能を果たすのではないだろうか。この超越性が欠けてしまえば、どうなるか?「損得マシン」人間の出来上がりである。もちろん「損得マシン」は金銭のみではなく、あらゆる事象に対しての判断が損得になるということである。
そういう傾向が増加しているように感じてしまうのは、歳のせいだろうか。