Drマサ非公認ブログ

大切なことはあります

 僕が大学を過ごしたのは1980年代である。ちょうどポストモダン思想が流行りしていた頃だ。

 今考えれば、通俗化されて理解されていたのかなと思う。例えば、バタイユの普遍経済学は生死の境を乗り越えたところの焼尽が通俗された消費に回収されたように思う。

 ポストモダンといえば、大きな物語の喪失だ。90年代に入れば、ソ連邦の崩壊もあり、マルクス主義が力を失い、信じるに値する物語がないと信じられるようになった。消費の称揚と重ね合わせれば、新自由主義的な世界が前景化するようになるし、実際そうなった。

 浅田彰の『構造と力』は構造主義とポスト構造主義の論理上のつながりを解説する名著であるが、『逃走論』の方がわかりやすく、「なんだかよくわからないが、システムから逃げて生きるしかない」という風に捕らえられたような気がする。逃げる事が差異化と通俗したわけだ。

 まだ色々あるとは思うけれど、こうやって信じられることや大切なことがないという認識を基底にしていくような運動であったように思う。だから、真理はないと!

 だけれども、僕たちは忘れてはいけないものがあった。「真理はない」という時に「真理」という言葉が存在し、その言葉に依拠せずにはいられないことを。つまり、「真理はない」という言説は「真理がある」ことを前提にしてしか語り得ないという事実である。

 「真理」の内実を具体化するのは難しいし、具体化すれば、ある政治が紛れ込むだろう。それでも「ない」として生きることの結果はどのようなものか考えてみれば、愚かな結果になるに違いない。

 「真理」だと堅苦しいので、「大切なこと」と言い換えておくのもいいかもしれない。通俗化しないようには気をつけておこう。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思想」カテゴリーもっと見る