東日本大震災の時に、次のような認識を政府や地震学会が示したことを覚えているだろうか。
「地震は予知できない」。
そのように世界に向かってメッセージを発信した。そこで防災減災のために人々が向かう社会になっていく。「地震は予知できない」との認識は、そのうち希薄化していく。「予知できる」かのような思いが前に出るようになる。
「地震は予知できない」を一般化すると、「自然は予知できない」である。人間は自然に包摂されているのだから、自然に左右され右往左往して生きていくしかないのだ。
できることは防災減災のようなレベルで、人間にとって不都合なことを予測しておいて、その対処方法を講じておくことだけである。しかしながら、その対処方法とは科学技術に依存するので、科学技術は肥大化する。
しかし、科学技術は「自然を予知できない」のだから、気休めでしかないとも言える。無常だけがある。鴨長明の時代と変わりはしない。
でも、対処できると思い、無常を忘れる。それを科学技術が補強する。科学信仰・技術信仰がいつの間にか人間を覆う。
そういえば東日本大震災の時、人々は祈っていた。無常の中で、人間が最後の最後にできる唯一の行為、それが祈りだ。
コロナだ。コロナは自然の営みのひとつでしかないだろう。だから「人間は予知できない」。しかし、そこに科学技術が前面に出る。だから可能なのは防災減災である。コロナで死ぬ人を少なくし、重症者を少なくし、感染者を少なくすることは多少できる。だから、やればいいのだが、ここの政府はやっているようにさえ思えない。
だから僕は自律性を考える。コロナにならないように自分でできることをやる。例えば、僕はイベルメクチンをやろうとは思わない。ただそこに自分なりの考えでやろうと決めた人は、その意味自律性を有しているので、尊重する。マスコミやネットの情報を鵜呑みにするのではなく、自身の経験や知識からの判断があれば尊重する。そういう人間がどれだけいるのかと疑問には思うが、尊重する。対話できると思う。
多分コロナウィルスと人間の関係において、ある生命バランスに至るまでコロナは広がる。どこにその生命バランスがあるかは、「人間は予知できない」。今「生命バランス」などという言葉を使ったが、その意味が確定さえできない。