Drマサ非公認ブログ

歓迎会の批判:確率とルール

 

 今日作業をしながらテレビをつけていたら、パラリンピック関係者が都内某所で集まって歓迎会を行なっていたとニュースを流していた。

 記者が批判するが、組織員会のなんだか偉い人(なんだと思う、ちゃんと見ていなかったのでご容赦)「質問の趣旨が理解できない」と答えていた。なんだかルールブックに基づいているとかなんとか。

 以前も触れたことがあるのだが、コロナに関しては数字が確率として現れてくる。例えば4人でマスクなし、マスクあり、距離1メートル、距離4メートルでコロナ感染の確率は・・・%、という感じであろう。確率が0でなければ、当然感染者が出ることになる。それが確率。

 そこで我々はその確率を巡って、自分や社会の行動を変化させるのだが、その確率を知った上で、どのように認識するべきかという問題が残る。そこで科学者であれば、コロナのように負の連鎖になるから、確率が低くなるような行動を取りましょうと。

 あなたがとる行動は確率を上げるか下げるか、自分で判断して、行動を決める。当然確率を下げる方を選択する。

 ところが、ここのルールを決めて、「4人までは大丈夫」とすると、5人はダメでも、今回3人だから大丈夫という判断になる。これでルールに則っていることになる。しかしながら、「4人まで大丈夫」というルールは、真に「4人までなら感染は起こらない」という意味ではないだろう。

 実は当たり前だが、感染リスクが残っている。あくまで「この程度だから・・・」という恣意的な判断が入る。別にこの判断は科学的な判断ではなくて、これもまた政治的な判断だ。我々のミクロな日常生活は、このような政治によって作られている。

 だから科学はそのまま数字として我々の前に現れるが、それをどのように評価し、利用するかは、人間次第である。確率は科学的な現れであるが、ルールは政治的現れだ。

 あの偉い人は、パラリンピックのルールブックを守っているのだから、なんの問題もないと思っているのだろう。だが、そのルールは真ではないし、そのルールを取り巻く社会的文化的政治があることの場面で、記者から質問をされたのであった。

 あっ、ニュースを見つけたので貼っておきます。

 https://www.tokyo-np.co.jp/article/126474

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