街中で保育園児がカートに乗っているのをよく見かけます。
おかしいとは思いませんか。どうも安全のためらしいのです。車から守るため、子供が勝手な行動をして、怪我でもしないため、そんなことでしょうか。
前回のブログで挙げた倉本聰の言葉には次のような言葉がありました。
「車と足どちらが大事ですか」
ではカートに保育園児を載せている時、「車と足どちらを大事」にしているでしょう。子供が歩く場所より、車が走る場所を大事にしていることになりませんか。子供が自分の足で歩いたり、走ったり、そして転んだり、立ちあがることは、人間が生きることの基本ではないですか。他でやればいいと思いますか。
イヴァン・イリイチは、交通の問題の根本を次のように言います。自動車が人間の歩く場所を奪った。それが近代という問題を考えるために必要な視角である。
少し触れておきましょう。
我々は交通手段が発達し、進歩とみなします。当然賛美しています。しかし、それは神話でしかありません。神話とは、真実ではないが皆が信じてしまう物語でしょう。交通の発達は、我々の移動の仕方、時間の使い方、空間の利用の仕方に止まらず、想像力や意識や認識に大きな影響を与えています。つまり、政治意識や政治活動の構成を変化させています。イリイチは輸送権力と言いますが、我々が「歩く権利」を剥奪されているとさえ言います。
この大きな変化は、我々を自律的活動をする市民ではなく、顧客としてのより良いサービスを享受する消費者にのみ限定化してきます。実際に我々はすでに消費者であって、自由(解放)を求めるのではなく、商品を求めることが主となり、その延長線上に安全を求めます。安全とはリスクと対概念ですが、ここでは省略させてもらいますが、示唆しておきます。
車が1台も通っていないのに、赤信号で立ち止まって、信号が変わるのを待っているということは、交通ルールに縛られているだけではなく、交通による政治意識に縛られていることです。この赤信号にどんな意味があるのかを考えずに、交通が自明化された世界に飼いならされているのです。そういう人間の集まりは赤信号だけではなく、政治に鈍感になります。イリイチは依存として批判しますが、自律的な人間を求めます。
より良い生活を商品とサービスの消費生活に求める社会は、生活が豊かになる分だけ自律性を麻痺して行きます。自己家畜化という人さえいますが、言い得て妙です。
イリイチについては、きちんとまとめて考察しなければならいと思っていますが、このブログではこの程度触れただけにします。
「あなたは結局なんのかのと云いながら
我が世の春を謳歌していませんか」
という言葉は、消費生活に向けられているわけですが、これを意識化すること自体が難しいと思います。先の子供は自律的活動を培うことを奪われているように思います。