僕は経済学を突き詰めて学んだことはないのだが、好きな経済学者がいる。
1人は宇沢弘文先生。そして神野直彦先生。
神野先生の本を読んでいて、心に残っている部分を紹介してようと思う。
神野直彦著『経済学は悲しみを分かち合うために』岩波書店、2018年。
こんなエピソードが綴られている。神野先生が子供の時、遊んでいて帰ろうとすると、自転車の鍵がない。そこで必死に探したけれど見つからなかった。ずいぶんと遅くになったのだろう。家に帰ると、遅くなったので心配していた「母が走り寄り、私を優しく抱きしめた」そうだ。
通常より遅くに帰ってきて、まず最初の母親の反応が、我が子の無事に安心したということだ。遅く帰って、「何やってたんだ」などと叱られることもあるような気がするが、ただ我が子の無事を喜ぶというのに、愛情が優先されている。
神野少年は遅くなった事情を話した。そこで母親は「信じられないほど強く叱った」というのである。そして次のような言葉で彼を諭したという。
「いつも教えているでしょう。お金で買えるものには価値がないと。自転車はお金で買えるでしょう。そんなもの、捨ててらっしゃい」
カッコいい母親だ。愛情が土台となっているからこそ、「心配かけること/かけないこと」の方が、お金より重要だと知っているのだ。僕は「くに(国家ではなく故郷)」とはこのような母親がいる場所だと思う。
神野少年はお金で買えるものを失くしても、怒られることはなかったと述懐する。対比されるのは自分で作ったノートだ。ノートは買えるが、苦労して書いたノートは買えない。というか買った訳ではない。お金では買えないものは、だから大切である、つまり価値があるということだ。
このような母親の元育てられた神野先生は、「お金で買えるものには価値がないという原理は、私の『生』を貫く絶対的基準に」なり、彼が経済学を志し、経済学の芯を決めたのである。
これを経済学の言葉、つまり市場という概念を代入すると、市場で手に入れることのできないものを大切にしなければならないという考えが、神野経済学になる。だから非市場のものを経済学に組み込むことで、既存の経済学批判になっている。
学ばせてもらった。多分経済を考える上でその前提になるのは、神野先生の母親から受けた愛情である。そうでなければならない。