先日宮沢賢治の「雨にも負けず」を引用して、オリンピックの栄光と感動だけではなく、コロナの苦しみにも心を配りたいとブログで述べさてもらった。
そうすると、たまたま今読んでいる本の中で賢治が取り上げられていた。賢治の『農民芸術概論綱要』に以下の文章がある。
wikiより
われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう
世界ぜんたいが幸福にならない限り、個人の幸福はあり得ない
僕もまあそこそこオリンピックはテレビで楽しんでいます。そういえば、スポーツ評論家で高名な玉木正之さんが、オリンピックではなくて、スポーツを楽しむのだと言っていた。1964年の東京オリンピックの映画監督市川崑さんが、日本人がオリンピック会場で、「どこでオリンピックやってるの?」と言う市民の姿から、オリンピックはどこか観念的であると感じたというエピソードを振り返って。
スポーツに全国大会、ワールドカップ、世界選手権、甲子園などの命名がつくと、スポーツがスポーツではなくなり、特別なものになってしまうのかなと考えてしまった。
今オリンピックで栄光と名誉と感動が作られている。スポーツがオリンピックという名前をつけることで、特別な社会的地位を与えられて。
僕たちは感動しさらに共感もしているだろう。オリンピックというスポーツにプレミアがついた大会で。そこで賢治の言葉を思い出すと、この感動も共感も大したことがないように思えてくる。
人類全体が幸福になるなんてありえない。どこかに不幸があるのは確実だ。オリンピックの陰でも、当然ある。そういう時、何に共感するべきなのだろうか。それは人の悲しさや苦しみである。つまり共苦compassin。それこそが人と人をつなげる原基だと思う。
それでも、スポーツの中にある闘い、苦しみ、悲しみもある。そこにこそスポーツの価値がある。
考えてみれば、感動ポルノと言われるほど、感動は共感としては副次的な位置付けでしかないと思う。