テレビ東京の「家、ついて行ってイイですか?」を妻と一緒に視聴。
30前後の若い夫婦と5歳程度の子供がある一家の自宅に行った。その子供が難病を持っていて、その苦労話が主となる構成であった。難病の名前は失念したが、汗をかいたり、疲れたりすると発作が出るらしい。
赤ん坊の頃は、年に10回も救急搬送が必要であったという。最近は救急搬送は激減したけども、予断を許すことはできないと。知り合いで同じ難病の子供が亡くなったという事実が夫婦に差し迫った状況であることを知らしめてもいた。
家族は子供の病気の治療のために、最善の病院を探し、埼玉に引っ越してきた。そして、子供が疲れないように、汗をかかないように、様子を見ながら、その範囲の中で、最大限子供が遊べるように、子供を見守っている。
夫婦の話を僕なりにまとめてみると、次のようになる。
いつ死ぬかわからないので、できるだけ自由に遊ばせたい。
子供への愛である。
ところで、僕たちの社会は、この夫婦のように子供愛しているだろうか。僕にそんな思いが湧き上がった。
子供を好きなように遊ばせてあげているだろうか。難病のこの子供は、好きなように遊ぶことはできない。難病に対峙しているので、遊びは限定されている。そういう現実を家族は生きている。
しかしながら、子供が死ぬことは誰にでもあり得ることである。昔に比べて、子供が死ぬ確率は間違いなく減った。日本では、産後死んでしまう乳児の数は世界最少である。
このような社会では、0歳児からの幼児教育が注目されている。遅れた子供のリカバリーになるなどと謳われるものもある。子供の才能や可能性を伸ばすことが大切であると謳われている。なんだろう才能とか可能性というのは。
実は教育という名の虐待ではないだろうか。子供を大切にしている社会なのだろうか。この夫婦のように子供を愛しているのだろうか。
社会全体で子供をある型にはめようと、教育というシステムを固めながら、子供のためと言いながら、子供のためではないことを推進しているのではないかと、いつも考えている。
子供が不幸な社会になってはいけない。子供を社会全体で虐待してはいけない。社会全体がそれを自明とすれば、その問題を意識することもできない。
最後に養老孟司を引いておきます。https://www.youtube.com/watch?v=e6f1iXuKdi0