作家の平野啓一郎さんが、京王線の事件からtwitterで死刑制度の問題点を指摘している。Yahooニュースなんかでも取り上げられている。
以下が、そのtwitter。
直感に反して、死刑制度に犯罪抑止効果がないことは知られていますが、最近では寧ろ、死刑制度が犯罪を誘発さえしている事件が目につきます。最高刑が無期懲役だったら、この手の犯罪の動機にはならないのでは? 日本も死刑制度を廃止すべきです。#NewsPicks https://t.co/p4AfxRbSzr
僕はもともと死刑廃止論を支持する。国家が人殺ししていいとは思えない。近代国家の性格からしても。
平野さんの指摘は、死刑が犯罪抑止にはならないとの事実である。これはずっと指摘されている。罰を与えれば、犯罪抑止できるかといえば、そんなことはない。
どうしてもやりたいなら、身体的苦痛を与え続け、生きながらえさせ、絶命するのを待つ、そんな刑罰でもやれば、多少効果もあるだろう。お断りである。話が脱線してしまった。
もう一つ犯罪者を罰する社会的な意味がある。感情的回復である。被害者家族は当然傷ついている。加害者が罰せられることで、傷の回復がなされるという考えだ。
ただこの考えは、微妙だ。瞬間的には感情的な回復のような方向を向くにしても、被害者とその家族の感情的回復は、周りの人々の共感や支え合いであるから。ましてや被害者が殺人で亡くなっていれば、生き返ることもないのであり、その苦しみを抱えざるを得ないからだ。だからこそ、目を向けるべきは支え合いである。
感情の回復が社会的であることの意味は、他にある。それは社会というか世間の感情回復である。許せない事件があれば、世間は社会心理学に受け入れることができない。そこで罰を与えると、世間がある程度の納得をするというプロセスが生み出される。これが感情の回復である。
だから、感情の回復は直接には関係ない人々、つまり世間の問題なのである。被害者の家族のためではなく、自分のため、自分を覆う世間のためである。
さて、死刑反対の真の意味はなんだろうか。
なかなか理解されないと思うが、明日書いてみようかと思う。
(つづく)