信仰とは異なる水準で、つまり考えるという点ではあるが、信じつつ信じない、そんな綱渡り的姿勢が意外といいのではないかと思ったりする。
例えば、ある人は天皇制を信じているとする。しかし本当は信じていない。あえて信じているという立場にたつ。信仰とは異なる水準で、神の不在を感じてしまうが、神を“あえて”信じているという立場にたつ、そんな弁証法的、跳躍的、矛盾にたつということがあると思う。稀少なことだが。
実際、このような“あえて”という姿勢をとっているのではないかと思わせる思想家はいる。例えば保守思想を取り上げるならば、保守思想を唱える者の中には、人間の不完全性を意識するとの出発点に立つ。ゆえに、革命や革新といった思想が持つ性急さを危険視する。
不完全な人間ではあっても、今現実の社会の中で、多少の問題はあるにしても、どうにか命を全うしている。そう考えれば、現実にある人間、社会をただ否定することできない。ここに伝統や歴史に対する尊敬が生じる。伝統や歴史こそが総じて人間を、社会を成り立たせてきたのだから、そこに立脚しなければならない。少なくとも、それが現時点での確実な知であるからと。
しかしながら、このような保守思想の考えを受け入れたにしても、伝統や歴史、あるいは国家が道徳の起源であることもまたニーチェから批判を浴びるに違いない。おそらくは、ある知性はこのような保守思想を支持しながらも、保守思想の根源にニーチェ的な道徳の虚構性を見出さずにはおられない。そうすると、“あえて”そのような立場にたつということを自覚することにならざるを得ない。もちろん保守思想に限ったことではないことは付け加えておきたい。
面白いことに、そのような知性がある立場、あるいはある思想を抱いているにしても、それは彼の社会に対する理解や評価によっては、全く反対の立場や思想をとるという事もある。通俗的な理解に終始してしまう我われは、そのような思想の言語的な表層しか理解せず、そのような思想を変節したとして非難するだけであろう。
ある普遍的な知は必ず社会や歴史という文脈上にしか現象化しないのであって、我われはできれば、その社会的歴史的に制限を受ける言語の奥にある彼の普遍的な志向/思考を想像しなければならない。
(この項おわり、とりあえず)