テレ朝の「大下容子ワイド!スクランブル」でキューバの医療について触れていた。新型コロナウィルスの封じ込めに成功しているという。ゲバラが医者であったというのも印象的である。
いくつか着目すべき点があるが、キューバはファミリードクター制を採っていることについて触れていこう。日本で言うかかりつけ医のようなものであるが、僕はかなり違うと思う。
医者のおおよそ半数がファミリードクターである。彼らは近隣の600人程度を担当している。生まれれば、このファミリードクターが自動的に担当する。そして地域住民の予防医療や保健教育、そしてもちろん診察を行う。
ある地域に生まれて、死ぬまでそこに住んで入れば、地域社会の住人は彼らファミリードクターと共に生活するのである。何か調子が悪ければ、この医者が相談にのってくれる。そもそも相談にいかなくても、医者の方からやってきたりする。
日本のかかりつけ医は我々の生活に密着しているわけではない。しかし、キューバでは密着している。しかも生まれてからずうと「診ている」。「診ている」というだけではなく、「見ている」し、「看ている」。ちなみに看護師も地域密着だ。
そうすると、「この人物はお腹が弱かったなあ」とか一人一人の身体の特徴を把握している。あるいは調子がいいときはどのような表情なのかということを認識している。これは科学では認識できない暗黙知的な領域にまで広がっているだろう。一人の人間の全体像をつかむ仕組みにもなっている。
さらに、地域の特徴を理解しているので、地域特有の問題を把握しており、地域社会の変化にも敏感になる。これまた暗黙知的な領域を含む。
ちなみに暗黙知というのは物理学哲学のマイケル・ポランニーが指摘した概念である。近代的な知、合理的な知、科学的な知の限界を言い表す概念だ。ちなみに最近は暗黙知を科学の土壌に乗せようとする研究もあるが、どう考えてもポランニーの意義を見失っている。なぜなら暗黙知とは概念の背後にある「なにがしか」であるからだ。
逆説的に指摘すると、日本の医者では暗黙知的な領域の知に開かれていないので、科学的手法を利用したデータに依拠する。もちろん、それにも意義はあるが、生活している状態から「なにがしかの違和感」を利用したりすることはできなくなるのだ。
日本ではクリニックがファミリードクターにあたるが、クリニックの医者自体が専門分化しているので、地域社会に住む一個人の全体像を視ようとはしないというか、できないだろう。
さらに患者である私たち自身が大病院志向であるだけではなく、大きな病院に勤務する医者自体がクリニックの医療を下に見ている。
地域社会に、あるいは共同体に溶け込んでいる医療体制が日本では脆弱なのではないかと、キューバの例を見て思ったりしてみた。医者が共同体の一員であることの意義を考えてみてもいいと思う。医者も仲間である方がいいだろう。