僕が大学院に進んだ時の最初の授業の話をしたい。
学問などというものが、さっぱりわからない頃である。まあ今だってわかっているのかどうか。
10人にも満たないゼミ形式の講義であった。というか、大学院の講義は全てゼミ形式だったのだが。
そこで人間の認識の不確実性についての議論が行われたのだが、政治学専攻の1学生が議論の中で「人間性」と発言したのだ。
そこで担当教員が「人間性」というのは、どういう意味かと尋ねてきた。そこでかの学生は「人間らしい」ということを言っていたと記憶している。そこで担当教員が、こんな感じのことを言った。
優しいとか、暖かい心とか、人のためという人間もいるが、反対に人間には人の心などどうとも思わないとか、冷酷とか、殺人しても心が痛まない人間もいる。それもまた人間であるから、「人間性」が「人間らしい」ということであれば、殺人しても心も痛まないという「人間らしい」もある。
そこで「人間性」を定義しておかないと、議論できないので、学問を志すのだから、安易な言葉の使い方はしてはならないと言った。
大学院に入ったばかりだったので、「そういうものか」と思い、言葉には気をつけようと思ったものだ。今なら、操作的な定義にすぎないので、学問上のというか、論文作法上要求される心構えとは理解はしている。
ただこのような言葉の定義を意識し始めると、議論そのものができなくなってしまう。そのため、何か発言する際、言葉の定義を気にする余り、発言することができなくなってしまった。元々は議論好きであったのだが、その時から議論自体を避けるようになってしまったと思う。
今現在は言葉の定義それ自体が困難ではないかと考えている。ちょうど前回、絆について話をさせてもらったのだが、絆を定義したところで、その定義から漏れ出す絆もあるだろうと思っている。そこで、言葉の意味は理解されないかといえば、間違いなく理解される。
その言葉は、ただ空中にぽつねんと存在しているわけではない。その言葉は必ず複雑な文脈の中に存在する。あるいは、その言葉を受け取った人間の生活史の中で(これも文脈だが)、その言葉は存在する。
そうすると、その言葉の意味は、言葉を定義しなくても、言葉の位置づけから自ずと開かれてしまう。そこで絆の意味がおおよそ理解されてしまう。だから、言葉の定義など気にしなくとも、意味を共有できる。だからこそ、話し合いができるわけだ。
考えてみれば、僕たちは言葉を定義などしないでコミュニケーションをすることができている。あまりに当たり前だ。前回丸川大臣の絆という言葉の使い方に疑問を呈したのだが、それは絆という言葉が使われる文脈がおかしくなっていることを示す例としてだ。
あの大学院の先生も、ゼミの発言という文脈を、論文作法という文脈で解釈する過ちを冒していたのだった。それもまた文脈なのだが。そもそも言葉はその言葉自体が意味であるから、日常的なコミュニケーションの場面において、定義など不要であろう。