ご存知の通り、「年金2000万円不足問題」が喧しい。
今日はちょうど党首討論があったそうだが、その内容を知らないので現時点で論評はできない。
2000万円足りないというのは、国民誰しもがそういうものだろうと予測していたに違いない。あえて口に出す事はなくとも。
僕が違和感を持ったのは、その2000万円のために資産運用をしなければならないと金融庁が言っている事だ。という事は、あえて汚い言葉で表現するが、国民に博打をして備えてくれという話である。なんで、そんな事、国から言われなきゃならないのだろう。
資産形成といえば、なんか肯定的な意味を担っているように思うけれども、資産形成可能な社会的層は限られている。結局、金持ちにとっては痛くもかゆくもないが、僕のような貧乏人からすれば、国債や株をやったって、たかが知れているどころか、株なんかだと失敗するのが関の山だ。たまに成功した者がいたとして、そんなのは逸脱例でしかないだろう。
時が経つに連れ、現行制度では対応できない事は当然のことだ。だから、制度変更を国民に対して、それほどの負担が生じないように変更していく事は必要である。ただ「年金100年安心プラン」などと宣伝していた政党もあるようだから、その政党は自民党とともに、実行に移すよう最大限の努力をしなければならない。なんせ与党なのだし。
僕が一番の疑問に思ったのは、麻生大臣が金融庁のワーキンググループが作成した報告書を受け取らないという“政治”を行った事だ。「政府のスタンスとは違う」という事らしいが、「政府のスタンス」通りの報告書以外は受け取らないというのは「政府のスタンス」絶対主義である。現状が「政府のスタンス」にそぐわなければ、なかったことになるというのは恐ろしいことである。単なる現実の否定になってしまう。
なぜなら合法的支配ではないからだ。合法的支配というのはウェーバーに詳しいので、そちらを参照して欲しいが、目的合理的な志向をもって、法が制定される。そこで重要な存在が官僚であり、官僚こそが知識を集約できる最大の存在である。
彼らは現状を実証主義的に把握する。この場合、年金に関してである。だから、「政府のスタンス」の前に実証主義的理解があるはずだから、この実証主義的な報告書は「政府のスタンス」に対して多様な可能性を議論する下地になるはずである。官僚が国をコントロールしようとしている可能性を否定しきれないわけだが。
確かに金融庁は2000万円不足の乗り越えとして、国民に資産形成を訴えたのは拙速というか稚拙なのかも知れない。ただ2000万円不足は実証主義的に理解された知見である。もちろんより社会的階層などを考慮に入れた詳細な議論は必要であるから、そこの部分は国会議員や閣僚がさらなる議論を行うように方向づければいい。
そのような議論へと向かうこともなく、なきことにしようとするのは当然合法的支配ではないし、日本は近代国家という旗を降ろさなければならない。
まあそんなことを雑に考えたのだけれども、本当に人生100年になるのかねえ?