まだ煮詰まっていないのだけれど、こんなことを考えていた。
どうして日本の文化はパターナリズム(父権制および温情主義)なのだろうか?
我々は神仏に手を合わせる。その時、何を目的とするのだろうか。どのような姿勢で手を合わせているのだろうか?
基本的には、現生利益を願ってではないだろうか。だから、神様に何かおねだりをするように思えてしまう。子供が親におねだりする(温情主義)ように。
当然親は子供が可愛いから、「おやつちょうだい」「ゲーム買って」とおねだりされると、できれば与えたいと思うのだろう。孫に何か与える祖父母の姿も重ねられる。なんせ甘い。
このような甘えの構造と、神仏へ手を合わせる行為は重なっていないだろうか。しかしながら、子供が望む通りに、なんでも与えてしまえば、子供は成長はしないし、社会のあり方を学ぶこともできない。
本当の親の喜びは、子供の成長であるのだから、子供が自分の力で何かできるようになった時であるはずだ。そうすると、なんでも与えてしまえば、子供の成長の機会を取り上げているようなものである。
子供が親の前で、駄々をこねて、「これ買って!」と言っているように、我々が神仏に「これちょうだい」と現生利益を求める姿は、どこか似ている。違う部分は、災難や災害に合わないようにとの願いは違っている。こちらは日本での元々の幸せ、つまり仕合わせ(巡り合わせ)との考えとマッチしている。そもそも神仏に「これ買って」とでも願っているようなら、情けない話だ。自分で買えばいい。
ちなみに元来の仏教には、現生利益を求めることはない。当たり前だが、それは煩悩だから、求めるわけがなく、それでも求めている自分は悟りを開いていない、仏様になっていないと自覚するものだからだ。
自然に何か与えてもらう。それがいつの間にか、自然との関係を希薄化して行く中で、「何か与えてもらう」だけが、一人歩きしているのだろうかと感じてしまう。神道はそのような機能を果たす宗教なのだろう。仏教にその機能だけが組み込まれてしまったのかもしれない。
我々は「何か(超越的なもの、自分を超えているもの)」に「何かを与えてもらう」ことを前提として生きているのかもしれない。それが意識することもなしに、政府に何か与えてもらう、会社に何か与えてもらう、そのような規範になっている。だから、政府や会社に何か与えてもらうような人間にあることを然としてきたのだろうか。
そんなことを思ったりした。