さて、まとめよう。
- 情報という問題では、患者は情報としてみられる。データでもいい。情報の複製は看護師やコメディカルが行う。情報の翻訳(解釈)は医者のみがする。そういう意味で、医者は医療に関して特別な存在である。患者はデータにすぎないので、主体的な関わりを持てない。こちらが意見することはノイズにすぎず、医者はノイズを医療的な専門知識でかわす術を学び、ここでもコメディカルは医者への媒介にすぎない。彼らは医療ではなく、生活習慣の管理者になる。
- フーコー的なパノプティコン装置として病院はある。これは実感としても確認。病院の中で僕は病人という異常な存在とされる。この異常な存在は監視され、矯正される。身体に装置をつけられ、PCにデータが入力される。矯正の目的は社会に出て正常な働きをすること。つまり正常ではないと決定する機関として病院は機能する。
- イリイチ的な意味で、病院が病人を生産し、自ら主体的に、あるいは自らが所属する共同体が病気に対処する力を想定していない。病気に対処する特権的機関として病院はある。病院だけが医療の主体である。これは医療を諸個人やその属する共同体の営みから排除していく。ちなみに日本ではホームドクター制が欠如しているが、諸外国には存在している。ホームドクターは共同体と社会システムとしての病院を媒介する中間的存在であるが、日本の病院の医者にはそういう意識はないし、ホームドクター的な存在、近所のかかりつけ医を下に見ている。これは近所のかかりつけ医の地位をあげる必要を感じる。ヨーロッパでは大学病院の医者とホームドクターの地位は遜色ない。
- 医療は自動化している。全てがマニュアル化されているので、複数のデータの関連から施す医療が事前に決まっている。もちろんこれは単純化した印象ではある。しかしながら、このようなマニュアル化している世界に病人として組み込まれることは、自己を持ちづらくされる。病院という人工環境のもとで、自動的に医療処置が供給される。病人は病気が良くなればということで、この自動的な装置に従順になる。病院とは都市化という自然の欠乏した状態の象徴的存在であるが、その実一番の自然でもある死と隣り合わせという近代の中で矛盾した機関になっている。戻るが、自動的な装置への従順とはコントロールしやすい人間の生産工場にもなる。ちなみに権力はコントロールしやすい人間を作る欲望に貫かれているので、病院もまたそういう性格を持つ。
- 近代的医療では外科系の怪我や急性期の病気には非常に優れた力を有している。僕の場合も心不全の急性期を乗り越えるのには非常に役に立った。ただ、その原因は生活習慣病であろうから、それには大きな力を発揮することはできず、経過観察するだけなので、医者は健康アドバイザーとなる。
- 全体として病院には人々が病院に依存するような無意識的といっていい力が働きいている。ハイデガーのGestellという概念を思い出させる。Gestellとは日本語に翻訳しづらい言葉のようだが、徴発性と訳される。人間が近代技術に囚われて、自己の意志を忘却し、あるいは自己の意志を貫いていると勘違いし(つまり踊らされて)、近代技術の向かう方向性に向かうことである。つまり医療技術であるなら、医療技術が進むもうとする方向性に人間が従うことである。医療というシステムは人間の病気克服に貢献するような見かけを持つが、その実医療システムの拡大を目的とする。薬依存はそういうことではないだろうかと疑ってしまう。実際薬依存の問題点や反作用があるにもかかわらず、薬依存はGestellされる。
急性期透析の頃
いろいろ御託を並べたが、他医療化、正常病、施設化など考えることもあったが、結局病気はなんてことはない。死んだらしょうがない。まあ、妻の前では言えないが。怒られちゃうし。
でも人生の価値は生活の安定や健康の保証であるとでも思えば、いろいろ問題だらけであることが常態だ。ゆえにそういうものではないのだろう、そういう実感を持っている。今回の心不全も人生にはいろいろあることの当たり前のことである。保証なんか不可能でしかない。
それを怖れてはその人生自体が萎縮してしまうではないか。それでは人生の価値を考えたり、達成したりする前に、その人生自体が萎縮するわけだから、人生の価値自体を問えなくなってしまう。病気に人生の価値の何らかの可能性を見出そうとしても、萎縮していては怖れるだけだ。それでは人生とは怖れのことになる。何が人生の価値なのかはわからないにしても、だから、人生のいろいろあることに萎縮しないで生きることは生きる方法とはなるのではないかと、そんなことを今回の入院で考えたことにしておこうと思う。