ここ数日天気が良い。ちょっと前までは寒くて、イヤな気分だった。イヤと言っってもしょうがないのだけれど。自然だからね。
でも年をとったのか、年々この春への変化、あるいは季節の移り変わりをなんだか深く感じることができるようになってきた。若い頃、そんなことなかったのにとも。そこで、なんだろうこの感慨は?と。
暖かさが感じられ始める春は、何度も何度も経験してきた。もう少しで60歳だから、その年齢の数だけは。春が来て、春は終わる。次の年、同じように春が来て、春は終わる。繰り返される。この時、年々増していくのだが、嬉しい思いとともに、なんだか哀しい思いも生まれてくる。
その理由を明確に述べることはできなけれど、これが年を取ったということなのだと、勝手に納得する。つまり、この季節の変化は繰り返されるが、私という人間は変化し続けていて、その変化が感慨を知らしめてくれる。だから人生のメタファーになってしまう。と同時に、この感慨を知るためには年を取る必要があったのだ。
春は桜が咲くので歓びが前面に出るが、それ以上に哀しさを抱えている。春には何かが過ぎ去ってしまったこと、これから過ぎ去ってしまうことが訪ねてくる。過ぎ去るとは、もう返らないということだ。それが哀しいのである。
過ぎ去って戻ることのないもの、失われてなくなったもの、そういう喪失が隠れている。やっと、年を取って知るのである。何を知ったか?人生に組み込まざるを得ない喪失感であり、それが悲しみの感情として立ち上がる。
僕は社会全体が、このような喪失感や哀しみを後退させようとする仕組みのように思う。だから楽しいことが良いことのように、社会全体が向かうのだと思う。美味しいものを食べるとか、楽しいイベントに参加するとか、喜びに向かうことを肯定する価値意識が前面に出る。
しかしながら、過ぎ去って返らないという人生の相は、春は来年を訪れる、桜はまた咲くという自然と離れている。この乖離が哀しみの根源のように思うのだが、そのような人生で、淡々と暮らしを行うことが生きる価値になるような気がする。