大切な仕事というか、やるべきことがあって、この数ヶ月取り組んでいた。提出する文書などを作成し、昨日やっと終わった。
そのため、ここのところコンスタントにブログをあげることができなかった。あくまで、僕が思ったこと、独り言、愚痴をいう場所であるとの位置付けであるので、あげない日があるのはしょうがないというか、問題ない。
それでもブログを書きたいというか、まあ独り言などがあるので、そちらは溜まっている感じだ。ちょうど衆院選もあるし、感じている事は多々あるし。
ということで、仕切り直しというか。
ちょうど知り合いと話をする機会があった。選挙のことを聞かれたりしたのだが、彼は自民党が何をしてきたのかを全く知らないで、雰囲気で判断していることが読み取れた。でも、彼は知っていると思っているというか、それが知ることだと思っている。そんな感じだ。
今回は雰囲気で、自民党ではないと判断しているようだ。その理由は何もない。なんとなくだ。
たまたま今回読んでいた中で、ある人物を批評する場面があったのだが、それを思い出した。こんな感じだ。時代や社会の枠組みを考えるのには向いていないようだ。
彼から感じたのは、時代や社会の枠組みの中の、その雰囲気だけだ。それを所与のものとする。いまの社会のあり方しか思い浮かばないという感じだ。批判がないのだ。不満はあるが。
考えてみたら、日本が現状維持を志向する社会であるとの言説を見かけることがあるが、この所与の構造の中にとどまり続けるということなのであろう。
所与のもの、言い換えれば、自明性。この中で、「あ〜でもない、こ〜でもない」と考えているので、そりゃあ同じことが続くことになる。
先に書いた、時代や社会の枠組みを考えるという姿勢がなければ、自分がどのような立場になっているのか、計ることが出来ないのは当然だ。
そして、そのような姿勢の者、つまり批判をする者を、社会からズレた人、異端のようにみてしまう。「批判ばかりして」というのは、このような雰囲気から生じた言葉なのでないか。
僕の知り合いは、30歳ぐらいの男性だが、「結婚することもできない」と社会に対して不満を述べるが、不満を述べるというのに、どうして自分がそういう状況にあるのかについては、頭が回らないようでいる。良くしようという考えがもたげない。
でも彼には「パンとサーカス」がある。コンビニとスマホだよ。