12月31日(月)
今日は最終日なんだけど、過去にもコレだけハードな旅程を組んだことあったかなぁ?もう何度も検索と修正を重ねて作った旅程だからね。
昨日まで「日本武尊」史跡めぐり(神社)は甲斐国で1社(酒折宮)駿河国で2社(草薙神社・焼津神社)ハントし…今日の最終日は尾張国と伊勢国で計9社ハントする計画なんだわ。
今朝は2:50ごろ一度起きたんだけど、まさか1時間も眠ってなかったとはなぁ…もっと眠ってた感はあったのに。
そして二度寝して起きたのも約1時間後…もうネットカフェじゃ眠れても2~3時間なんだな。
逆に本気で寝に入っちゃうと…前日までの寝不足の蓄積があったら絶対爆睡して起きられないハズだからね。
中部限定って、俺みたいな別の地域から来た人が珍しがると思って付けてるのかね?…それか中部地区の人が「俺たちしか食えないんだ~」って思ってもらえるようにしてんのかね?
豊橋鉄道は始発が6:15発なんで、5:50にチェックアウトしました。
やっぱココ(アイ・カフェ)あるの知って良かったわ…5:00にチェックアウトしたって、始発までこんな真っ暗じゃ何もできんわい。
6:10「運動公園前」駅に着き…6:15始発の豊橋鉄道に乗りました。
でも、この先もあんま早く着いても困るんで…6:28「市役所前」で途中下車しました。
そして「豊橋公園」に入りました…向かいましたるは「吉田城」です。
でも…園内はまだ真っ暗で、間違えて濠?の外側に行っちゃったよ。
コレが「吉田城 鉄櫓」です。
鉄櫓を支える石垣は野面積みで「池田輝政」が城主だったころのモノであることが、2005年の修復の際に判明したそうです。
まだ日が昇らないなぁ…写真右は豊橋市役所です。
6:49「市役所前」発の豊橋鉄道に乗り、7:00ごろ「駅前」で降りました。
おぉ、このカッコいい列車に乗るんだ…って思ったら、この後ろ2両は有料で、その前のはフツーの車両だったわ。
7:10「豊橋」発の名鉄名古屋線に乗り…「国府」経由で7:32「本宿」で降りました。
さて、これから約30分でココに戻って来なきゃならんぞ。
7:40ごろ「宝蔵寺」に着きました…コレは「山門」です。
「賀勝水」だって…飲めるの?
コレは「鐘楼門」です。
コレは「本堂」です…開祖は「行基」と伝えられています。
コレは「六角堂」です。
ココを上がる途中にもう見えてますね…俺が朝っぱらからこの「宝蔵寺」に来た目的が。
何とココには「伝 近藤勇の首塚」があるんです
板橋刑場で斬首され、三条大橋に晒されていた「近藤勇」の首を「斎藤一」が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた「孫空義天」に供養を依頼し、義天の異動に伴ってココ「宝蔵寺」に埋葬されたとされています。
三鷹市「龍源寺」、板橋駅東口前「寿徳寺境外墓地」、会津若松市「天寧寺」の近藤勇墓はハント済で…ココもウロ覚えで知ってはいたけど、今回まさかこの沿線に来て墓参りができるとは思わなかったな。
コレは「松平家霊廟」です… 松平広忠(徳川家康の父)、松平忠政(徳川家康の異母兄)、亀姫(徳川家康の長女)、市場姫(徳川家康の異母妹)らの墓があります。
コレは「東照宮」です…「徳川家康」が伯父である住職の教翁上人に就いて、「宝蔵寺」で読書きを習ったといいます。
この木は「イヌマキ」です。
文政9年(1826年)には「シーボルト」も参拝しているらしいスゴい寺でした。
「本宿古城」がこの辺にあったの?
コレは「本宿村道路元標」です。
8:00になる前には「本宿」駅に戻って来たよ…駅の壁画?は…
「額田姫王」じゃありませんかぁ~…「大海人皇子(天武天皇)」の妻でありながら、兄「中大兄皇子(天智天皇)」に寵愛されたという絶世の美人です。
8:09「本宿」発の名鉄名古屋線に乗る予定が、8:00発に間に合っちゃったよ。
トイレで小便してから列車に乗り…2駅目に到着する前に気づいたんだわ、手荷物が1つ足りないことに。
うわ~、コレ絶対トイレで小便するときに便器の上に置いたまま出て来ちゃったよ…と、2駅目の「藤川」で降りました。
でもこの駅、各駅とかしか停まらないみたいで、「本宿」に戻る列車が来るの8:17だってよ…10分以上待つのかよぉ。
しかもですよ、駅は無人で改札出ないと反対側のホームに行けないなんてマジかいな…まぁそれをどう対処したか?はココには書きません。
思いもよらず、駅前の「徳川家康」像をハントできました。
ホームで列車を待つ間、「本宿」駅の電話番号を調べて電話したよ…まだトイレにあったら確保しておいてもらおうと思ってさ。
そしたらもう駅事務所で確保されてたわ…良かったぁ、見つかってて。
昨晩も「和幸」で晩ゴハン食べる前にトイレに同じ手提げ袋を忘れちゃってたからね…荷物は3つ持ってるんだけど、トートは首から提げ、リュックは背負ってるんだわ。
そして、もう1つの手提げ袋を左肩に掛けてて、トイレでは便器上に置いて用を足すんだけど…下向いて用を済ませた後、上見ないで行っちゃうんだよね。
そして、8:21「本宿」に戻りました…また「東岡崎」行が同じ8:21に出るんだけど、そりゃ当然乗れないわなぁ、一応本人確認やら書類への記入もあったからさ。
なので、8:30「本宿」発の名鉄名古屋線に乗り…
すんなり着いてれば8:09だったのが、8:43「東岡崎」に着きました。
この橋を渡って来たけどビル(ホテル?)の間に見えるね。
8:55ごろ「④菅生神社」に着きました…予定より着くのが遅くなったけど、御朱印もらえるのが9:00~だったらこの遅れもイイ時間ツブしになるんだよね。
だから計画ではココを9:00ごろ出る予定で組んではいたんだけど…元々は8:30には着いてて、あわよくばスグ御朱印もらって出れたら…という願望で、その後けっこうタイトなスケジュールを組んじゃってたのよ。
そして、社務所を見てみると…「御朱印は9時から」という貼紙がしてあってさぁ、今日は大晦日で既に巫女さんたちも出て来て準備してるから「チョットイイデスカ?」とお願いすれば、宮司さん呼んで書いてもらえたかどうかは分かりませんね。
それに賭けてみようと思ってたけど、結局自分のミスで到着が9:00になっちゃったからさ。
「日本武尊」東征のとき(西暦110年)高石(今の菅生河畔の満性寺あたり)にて、賊を討つために矢を作らせると…神風が吹き、そのうちの一矢が小川に吹き流されてしまいます(その川を吹矢川という)。
そこで尊は、その矢を「御霊代」と仰ぎ、伊勢の大神を勧請して当社を創建されたことに始まるとされます…当初は「吹矢大明神」と称されていたといいます。
「稲荷大明神」と「慰霊社」です。
9:10「菅生神社」を出ました…この後、1社ハントしてから9:41「矢作橋」発の名鉄名古屋線に乗る予定なんだけど、コリャ無理だな。
スグ近くが「岡崎城」なんでね…「徳川家康」像です。
時間があれば「岡崎城」や「龍城神社」にも行きたかったけど、もうダメやな。
コレは「本多忠勝」像です。
家康の「しかみ像」だね…あの三方ヶ原で家康が「武田信玄」に討たれていれば。
9:20ごろ「岡崎公園」を出ました…「岡崎城」はもうハント済なんで、今は通り抜けただけです。
「矢作橋」を渡ると…
袂に「蜂須賀小六と日吉丸像」があります…この矢作橋は秀吉(日吉丸)が12歳のころに「蜂須賀小六」に出会った逸話が残る場所なんです。
なので秀吉は右の子供の方だからね…左の大人が「蜂須賀小六」だよ。
時間は押してるけど次に行く神社までは計画通りに行ってみます。
9:35ごろ「⑤矢作神社」に着きました。
「日本武尊」は、地元の民から賊の退治を依頼され、矢を作る職人である矢作部たちに矢を作るよう命じました。
矢を作るための竹は川の中州にありましたが、川の流れは速く…矢作部たちは竹の生えている中州まで行けませんでした。
そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり、竹を切り取って来ました…矢作部たちはこの竹を用いて1万本の矢を作り「日本武尊」は素戔嗚尊を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられています。
その矢竹の一部がこの矢竹やぶで、この故事により「矢作神社」と呼ばれることになったといいます。
1335年「新田義貞」が「足利尊氏」との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸りました…コレを神の加護と信じて戦い、新田義貞が勝利を収めたといわれます。
このときの石が「うなり石」と呼ばれ、矢竹とともに祀られています。
第一次世界大戦後、日本海軍の防護巡洋艦「矢矧」の艦内にはココ「矢作神社」の分霊が祀られていました。
社務所に行ったら居た人が宮司さんじゃなくてさ…境内では初詣の準備をしてたんで呼びに行ってくれました。
宮司さん居てくれて良かったわ…初穂料¥200でした。
摂社と手水舎です。
9:50ごろ「矢作神社」を出ました…当初の計画では9:41「矢作橋」発の名鉄名古屋線に乗って「男川」で降りて「⑥白鳥神社」に行く予定だったけど、諦めてスルーすることにしたわ。
その「白鳥神社」ですが、「日本武尊」が東征された折、ご宿泊された旧跡と伝えられ…日本武尊が崩御後、祠が建立されたといいます。
でも、御朱印やってなさそう(検索に出てこない)だったから…ココをスルーしたのは正解だったかも?
頑張って駅まで急ぎましたが…
10:00「矢作橋」駅に着きました…9:58発には間に合わなかったかぁ。
そして、10:16発の名鉄名古屋線に乗り、「新安城」経由で10:41「鳴海」で降りました。
コレは駅前の「浅間神社」です。
コレは「圓道寺」です。
10:55すぎ「⑥成海神社」に着きました。
「東大鳥居」から参道を進むと…
コレは「中鳥居」です。
「手水舎」は風呂みたいだな…
「社務所」で御朱印をお願い(初穂料¥300)し…境内を散策します。
初詣のための屋台も準備されてるね。
コレは「拝殿」です…朱鳥元年(686年)「成海神社」の創建当初は今より南の地、扇川に面した天神山に鎮座していました。
中世の東海道では「熱田神宮」から鳴海までの区間は鳴海潟と呼ばれる干潟があり、満潮時には海となる地形でした。
天神社には「日本武尊」が鳴海潟で詠まれたという御歌が残っています。
「鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも」
御歌にある「火高(現在の大高)」とは尾張国造城館の所在地で、「日本武尊」の后である「宮簀媛命」が住んでいました。
東征からの帰還の際に「日本武尊」は鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったことが伺えます。
左は「参集殿」、右は「直会殿」です。
地名は「鳴海」町なんだけど、神社は「成海」なんだね。
境内には「東宮稲荷神社」もあります。
稲荷の朱色の鳥居がキレイに連なっています。
11:10「成海神社」を出ました。
鳴海駅に戻る途中の神社を見てみたら…ココも「日本武尊」に関係があったんだね。(…てか、ココが成海神社の創祠じゃん)
「鳴海城跡」の碑もあるよ。
帰ってからブログ記事編集してて分かったわ…ココが成海神社の由緒で書いた「天神社」で、入口には「歌碑」があったね。
行きと同じ側の道で帰ってたらスルーしちゃってたよ…逆側歩いて帰って良かった。
11:20すぎ「鳴海」駅に戻りました。
そして、11:26発の名鉄名古屋線に乗り…11:38「神宮前」で降りました。
途中「白鳥神社」を断念してるけど、たった10分しか計画よか早く着いてないわ…
やって来たのは「⑦熱田神宮」です…コレは「東門」です。
ココに来たのは2011年6月以来、7年半ぶりかぁ~
「手水舎」です。
その先には…
「酒樽」と「弘法大師」のお手植えと伝えられる「大楠」があります。
コレは「信長塀」です…「織田信長」が桶狭間出陣のとき、「熱田神宮」に必勝祈願をして、みごと大勝したので…そのお礼として奉納した築地塀です。
「本宮」と「授与所」です。
ココでは「御朱印」とは言わず「御神印」と言います…初穂料は定められてないんだけど、俺は「メジャー寺院」と「日本武尊」の2冊もらったし、細かいお金無かったんで千円札収めましたよ。
そして「本宮」に参拝し…
急いで西側へ出たかったのに出口が分からん。
「本宮」から戻って「西門」から出りゃよかったみたいね…本宮の奥まで行っちゃって「こころの小径」に入っちゃってたわ。
コレは「御田神社」です。
もう「東門」から出るしかなくなり…この後「白鳥古墳」と「断夫山古墳」を見てから「熱田」駅に行くんだったけど、そこまで行っちゃうとまた計画が崩れちゃうので諦めたよ。
ココや「白鳥神社」はリベンジでGWか夏に来よう…
予定通り、12:26「熱田」発のJR東海道線に乗りました。
途中、こんな雲を見たけど…コレのもっとシマの範囲が大きいのを、地元で夜見上げてたら目が回りそうになったのよ。
「大府」でJR武豊線に乗り換えたんだけど、行き先は「武豊(たけゆたか)」?
騎手の「武豊」と同じ字だけど「たけとよ」と読むみたい。
そして、12:55「緒川」で降りました。
駅から歩いて10分もしないで「⑧入海神社」に着きました。
ココの祭神は「弟橘媛命」なんだよ。
とりあえず「社務所」に行ったらさぁ…ココ、宮司さんが常駐してないんだって~
書置きの御朱印が無いか?を氏子さん?に電話で問い合わせてもらってる間に参拝しました。
「日本武尊」が東征の折、当地の「穂積忍山宿禰」は水軍を結成し…娘であった「弟橘媛命」を日本武尊に同行させたといいます。
そして、その旅路の途中、荒天に遭った際、全軍の安泰を祈り「弟橘媛命」は海に身を投げ入れたと言われていますが、その後「弟橘媛命」の櫛がこの地の紅葉川の辺りに流れつき、この櫛を祀ったことに始まると伝えられています。
…って、「走水」沖で入水したんじゃないの?…そこで入水した「弟橘媛命」の櫛が遠く尾張の故郷にまで流れ着いたってこと?
でも、この地は「日本武尊」と「弟橘媛命」出逢いの地ってことやね~
コレは「招魂社」です。
…すると書置きがあったようで、初穂料¥300でいただきました…日付も入ってないモノだったけど、手ブラで帰れませんわな。
13:13「入海神社」を出て…
13:18には「緒川」駅に着いたよ…この雲“龍の腹”と俺は名付けたんだけど、どう?
そして、13:32「緒川」発のJR武豊線に乗り、「大府」経由で13:58「名古屋」に着きました。
それから、14:06「名古屋」発のJR関西本線に乗りました。
さて…次は三重県に入るし、次数制限に掛かっちゃうんで…一旦ココで〆ますね。
今日は最終日なんだけど、過去にもコレだけハードな旅程を組んだことあったかなぁ?もう何度も検索と修正を重ねて作った旅程だからね。
昨日まで「日本武尊」史跡めぐり(神社)は甲斐国で1社(酒折宮)駿河国で2社(草薙神社・焼津神社)ハントし…今日の最終日は尾張国と伊勢国で計9社ハントする計画なんだわ。
今朝は2:50ごろ一度起きたんだけど、まさか1時間も眠ってなかったとはなぁ…もっと眠ってた感はあったのに。
そして二度寝して起きたのも約1時間後…もうネットカフェじゃ眠れても2~3時間なんだな。
逆に本気で寝に入っちゃうと…前日までの寝不足の蓄積があったら絶対爆睡して起きられないハズだからね。
中部限定って、俺みたいな別の地域から来た人が珍しがると思って付けてるのかね?…それか中部地区の人が「俺たちしか食えないんだ~」って思ってもらえるようにしてんのかね?
豊橋鉄道は始発が6:15発なんで、5:50にチェックアウトしました。
やっぱココ(アイ・カフェ)あるの知って良かったわ…5:00にチェックアウトしたって、始発までこんな真っ暗じゃ何もできんわい。
6:10「運動公園前」駅に着き…6:15始発の豊橋鉄道に乗りました。
でも、この先もあんま早く着いても困るんで…6:28「市役所前」で途中下車しました。
そして「豊橋公園」に入りました…向かいましたるは「吉田城」です。
でも…園内はまだ真っ暗で、間違えて濠?の外側に行っちゃったよ。
コレが「吉田城 鉄櫓」です。
鉄櫓を支える石垣は野面積みで「池田輝政」が城主だったころのモノであることが、2005年の修復の際に判明したそうです。
まだ日が昇らないなぁ…写真右は豊橋市役所です。
6:49「市役所前」発の豊橋鉄道に乗り、7:00ごろ「駅前」で降りました。
おぉ、このカッコいい列車に乗るんだ…って思ったら、この後ろ2両は有料で、その前のはフツーの車両だったわ。
7:10「豊橋」発の名鉄名古屋線に乗り…「国府」経由で7:32「本宿」で降りました。
さて、これから約30分でココに戻って来なきゃならんぞ。
7:40ごろ「宝蔵寺」に着きました…コレは「山門」です。
「賀勝水」だって…飲めるの?
コレは「鐘楼門」です。
コレは「本堂」です…開祖は「行基」と伝えられています。
コレは「六角堂」です。
ココを上がる途中にもう見えてますね…俺が朝っぱらからこの「宝蔵寺」に来た目的が。
何とココには「伝 近藤勇の首塚」があるんです
板橋刑場で斬首され、三条大橋に晒されていた「近藤勇」の首を「斎藤一」が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた「孫空義天」に供養を依頼し、義天の異動に伴ってココ「宝蔵寺」に埋葬されたとされています。
三鷹市「龍源寺」、板橋駅東口前「寿徳寺境外墓地」、会津若松市「天寧寺」の近藤勇墓はハント済で…ココもウロ覚えで知ってはいたけど、今回まさかこの沿線に来て墓参りができるとは思わなかったな。
コレは「松平家霊廟」です… 松平広忠(徳川家康の父)、松平忠政(徳川家康の異母兄)、亀姫(徳川家康の長女)、市場姫(徳川家康の異母妹)らの墓があります。
コレは「東照宮」です…「徳川家康」が伯父である住職の教翁上人に就いて、「宝蔵寺」で読書きを習ったといいます。
この木は「イヌマキ」です。
文政9年(1826年)には「シーボルト」も参拝しているらしいスゴい寺でした。
「本宿古城」がこの辺にあったの?
コレは「本宿村道路元標」です。
8:00になる前には「本宿」駅に戻って来たよ…駅の壁画?は…
「額田姫王」じゃありませんかぁ~…「大海人皇子(天武天皇)」の妻でありながら、兄「中大兄皇子(天智天皇)」に寵愛されたという絶世の美人です。
8:09「本宿」発の名鉄名古屋線に乗る予定が、8:00発に間に合っちゃったよ。
トイレで小便してから列車に乗り…2駅目に到着する前に気づいたんだわ、手荷物が1つ足りないことに。
うわ~、コレ絶対トイレで小便するときに便器の上に置いたまま出て来ちゃったよ…と、2駅目の「藤川」で降りました。
でもこの駅、各駅とかしか停まらないみたいで、「本宿」に戻る列車が来るの8:17だってよ…10分以上待つのかよぉ。
しかもですよ、駅は無人で改札出ないと反対側のホームに行けないなんてマジかいな…まぁそれをどう対処したか?はココには書きません。
思いもよらず、駅前の「徳川家康」像をハントできました。
ホームで列車を待つ間、「本宿」駅の電話番号を調べて電話したよ…まだトイレにあったら確保しておいてもらおうと思ってさ。
そしたらもう駅事務所で確保されてたわ…良かったぁ、見つかってて。
昨晩も「和幸」で晩ゴハン食べる前にトイレに同じ手提げ袋を忘れちゃってたからね…荷物は3つ持ってるんだけど、トートは首から提げ、リュックは背負ってるんだわ。
そして、もう1つの手提げ袋を左肩に掛けてて、トイレでは便器上に置いて用を足すんだけど…下向いて用を済ませた後、上見ないで行っちゃうんだよね。
そして、8:21「本宿」に戻りました…また「東岡崎」行が同じ8:21に出るんだけど、そりゃ当然乗れないわなぁ、一応本人確認やら書類への記入もあったからさ。
なので、8:30「本宿」発の名鉄名古屋線に乗り…
すんなり着いてれば8:09だったのが、8:43「東岡崎」に着きました。
この橋を渡って来たけどビル(ホテル?)の間に見えるね。
8:55ごろ「④菅生神社」に着きました…予定より着くのが遅くなったけど、御朱印もらえるのが9:00~だったらこの遅れもイイ時間ツブしになるんだよね。
だから計画ではココを9:00ごろ出る予定で組んではいたんだけど…元々は8:30には着いてて、あわよくばスグ御朱印もらって出れたら…という願望で、その後けっこうタイトなスケジュールを組んじゃってたのよ。
そして、社務所を見てみると…「御朱印は9時から」という貼紙がしてあってさぁ、今日は大晦日で既に巫女さんたちも出て来て準備してるから「チョットイイデスカ?」とお願いすれば、宮司さん呼んで書いてもらえたかどうかは分かりませんね。
それに賭けてみようと思ってたけど、結局自分のミスで到着が9:00になっちゃったからさ。
「日本武尊」東征のとき(西暦110年)高石(今の菅生河畔の満性寺あたり)にて、賊を討つために矢を作らせると…神風が吹き、そのうちの一矢が小川に吹き流されてしまいます(その川を吹矢川という)。
そこで尊は、その矢を「御霊代」と仰ぎ、伊勢の大神を勧請して当社を創建されたことに始まるとされます…当初は「吹矢大明神」と称されていたといいます。
「稲荷大明神」と「慰霊社」です。
9:10「菅生神社」を出ました…この後、1社ハントしてから9:41「矢作橋」発の名鉄名古屋線に乗る予定なんだけど、コリャ無理だな。
スグ近くが「岡崎城」なんでね…「徳川家康」像です。
時間があれば「岡崎城」や「龍城神社」にも行きたかったけど、もうダメやな。
コレは「本多忠勝」像です。
家康の「しかみ像」だね…あの三方ヶ原で家康が「武田信玄」に討たれていれば。
9:20ごろ「岡崎公園」を出ました…「岡崎城」はもうハント済なんで、今は通り抜けただけです。
「矢作橋」を渡ると…
袂に「蜂須賀小六と日吉丸像」があります…この矢作橋は秀吉(日吉丸)が12歳のころに「蜂須賀小六」に出会った逸話が残る場所なんです。
なので秀吉は右の子供の方だからね…左の大人が「蜂須賀小六」だよ。
時間は押してるけど次に行く神社までは計画通りに行ってみます。
9:35ごろ「⑤矢作神社」に着きました。
「日本武尊」は、地元の民から賊の退治を依頼され、矢を作る職人である矢作部たちに矢を作るよう命じました。
矢を作るための竹は川の中州にありましたが、川の流れは速く…矢作部たちは竹の生えている中州まで行けませんでした。
そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり、竹を切り取って来ました…矢作部たちはこの竹を用いて1万本の矢を作り「日本武尊」は素戔嗚尊を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられています。
その矢竹の一部がこの矢竹やぶで、この故事により「矢作神社」と呼ばれることになったといいます。
1335年「新田義貞」が「足利尊氏」との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸りました…コレを神の加護と信じて戦い、新田義貞が勝利を収めたといわれます。
このときの石が「うなり石」と呼ばれ、矢竹とともに祀られています。
第一次世界大戦後、日本海軍の防護巡洋艦「矢矧」の艦内にはココ「矢作神社」の分霊が祀られていました。
社務所に行ったら居た人が宮司さんじゃなくてさ…境内では初詣の準備をしてたんで呼びに行ってくれました。
宮司さん居てくれて良かったわ…初穂料¥200でした。
摂社と手水舎です。
9:50ごろ「矢作神社」を出ました…当初の計画では9:41「矢作橋」発の名鉄名古屋線に乗って「男川」で降りて「⑥白鳥神社」に行く予定だったけど、諦めてスルーすることにしたわ。
その「白鳥神社」ですが、「日本武尊」が東征された折、ご宿泊された旧跡と伝えられ…日本武尊が崩御後、祠が建立されたといいます。
でも、御朱印やってなさそう(検索に出てこない)だったから…ココをスルーしたのは正解だったかも?
頑張って駅まで急ぎましたが…
10:00「矢作橋」駅に着きました…9:58発には間に合わなかったかぁ。
そして、10:16発の名鉄名古屋線に乗り、「新安城」経由で10:41「鳴海」で降りました。
コレは駅前の「浅間神社」です。
コレは「圓道寺」です。
10:55すぎ「⑥成海神社」に着きました。
「東大鳥居」から参道を進むと…
コレは「中鳥居」です。
「手水舎」は風呂みたいだな…
「社務所」で御朱印をお願い(初穂料¥300)し…境内を散策します。
初詣のための屋台も準備されてるね。
コレは「拝殿」です…朱鳥元年(686年)「成海神社」の創建当初は今より南の地、扇川に面した天神山に鎮座していました。
中世の東海道では「熱田神宮」から鳴海までの区間は鳴海潟と呼ばれる干潟があり、満潮時には海となる地形でした。
天神社には「日本武尊」が鳴海潟で詠まれたという御歌が残っています。
「鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも」
御歌にある「火高(現在の大高)」とは尾張国造城館の所在地で、「日本武尊」の后である「宮簀媛命」が住んでいました。
東征からの帰還の際に「日本武尊」は鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったことが伺えます。
左は「参集殿」、右は「直会殿」です。
地名は「鳴海」町なんだけど、神社は「成海」なんだね。
境内には「東宮稲荷神社」もあります。
稲荷の朱色の鳥居がキレイに連なっています。
11:10「成海神社」を出ました。
鳴海駅に戻る途中の神社を見てみたら…ココも「日本武尊」に関係があったんだね。(…てか、ココが成海神社の創祠じゃん)
「鳴海城跡」の碑もあるよ。
帰ってからブログ記事編集してて分かったわ…ココが成海神社の由緒で書いた「天神社」で、入口には「歌碑」があったね。
行きと同じ側の道で帰ってたらスルーしちゃってたよ…逆側歩いて帰って良かった。
11:20すぎ「鳴海」駅に戻りました。
そして、11:26発の名鉄名古屋線に乗り…11:38「神宮前」で降りました。
途中「白鳥神社」を断念してるけど、たった10分しか計画よか早く着いてないわ…
やって来たのは「⑦熱田神宮」です…コレは「東門」です。
ココに来たのは2011年6月以来、7年半ぶりかぁ~
「手水舎」です。
その先には…
「酒樽」と「弘法大師」のお手植えと伝えられる「大楠」があります。
コレは「信長塀」です…「織田信長」が桶狭間出陣のとき、「熱田神宮」に必勝祈願をして、みごと大勝したので…そのお礼として奉納した築地塀です。
「本宮」と「授与所」です。
ココでは「御朱印」とは言わず「御神印」と言います…初穂料は定められてないんだけど、俺は「メジャー寺院」と「日本武尊」の2冊もらったし、細かいお金無かったんで千円札収めましたよ。
そして「本宮」に参拝し…
急いで西側へ出たかったのに出口が分からん。
「本宮」から戻って「西門」から出りゃよかったみたいね…本宮の奥まで行っちゃって「こころの小径」に入っちゃってたわ。
コレは「御田神社」です。
もう「東門」から出るしかなくなり…この後「白鳥古墳」と「断夫山古墳」を見てから「熱田」駅に行くんだったけど、そこまで行っちゃうとまた計画が崩れちゃうので諦めたよ。
ココや「白鳥神社」はリベンジでGWか夏に来よう…
予定通り、12:26「熱田」発のJR東海道線に乗りました。
途中、こんな雲を見たけど…コレのもっとシマの範囲が大きいのを、地元で夜見上げてたら目が回りそうになったのよ。
「大府」でJR武豊線に乗り換えたんだけど、行き先は「武豊(たけゆたか)」?
騎手の「武豊」と同じ字だけど「たけとよ」と読むみたい。
そして、12:55「緒川」で降りました。
駅から歩いて10分もしないで「⑧入海神社」に着きました。
ココの祭神は「弟橘媛命」なんだよ。
とりあえず「社務所」に行ったらさぁ…ココ、宮司さんが常駐してないんだって~
書置きの御朱印が無いか?を氏子さん?に電話で問い合わせてもらってる間に参拝しました。
「日本武尊」が東征の折、当地の「穂積忍山宿禰」は水軍を結成し…娘であった「弟橘媛命」を日本武尊に同行させたといいます。
そして、その旅路の途中、荒天に遭った際、全軍の安泰を祈り「弟橘媛命」は海に身を投げ入れたと言われていますが、その後「弟橘媛命」の櫛がこの地の紅葉川の辺りに流れつき、この櫛を祀ったことに始まると伝えられています。
…って、「走水」沖で入水したんじゃないの?…そこで入水した「弟橘媛命」の櫛が遠く尾張の故郷にまで流れ着いたってこと?
でも、この地は「日本武尊」と「弟橘媛命」出逢いの地ってことやね~
コレは「招魂社」です。
…すると書置きがあったようで、初穂料¥300でいただきました…日付も入ってないモノだったけど、手ブラで帰れませんわな。
13:13「入海神社」を出て…
13:18には「緒川」駅に着いたよ…この雲“龍の腹”と俺は名付けたんだけど、どう?
そして、13:32「緒川」発のJR武豊線に乗り、「大府」経由で13:58「名古屋」に着きました。
それから、14:06「名古屋」発のJR関西本線に乗りました。
さて…次は三重県に入るし、次数制限に掛かっちゃうんで…一旦ココで〆ますね。
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