【9】へ
「ええと、それじゃあ」
「うん。まあ、とりあえず」
「乾杯」
かちん。
グラスとグラスを打ち鳴らす。
一枚板で造った長椅子。隣り合わせに腰を下ろした手塚と柴崎は、安っぽいガラスコップに注がれたビールを同時にぐいと呷った。
「美味い」
手塚が唸る。柴崎も天を仰いだ。
「あー沁みる。内臓が灼けそう」
目を見交わしてふふ、と微笑む。
「さあて、食べるわよう」
割り箸をぱちんと割って、柴崎が舌なめずり。
手塚はびっくりしたように目を瞠る。
「お前さんざん食ってきたんじゃないのか、フルコース」
「食べたけど、食べた気がしなかった」
こっちのが美味しそうなんだもん。そう言ってぐつぐつと煮込まれたおでんから立ち上る湯気の向こうに笑みを投げかける。
屋台のおやじさんが皺深い顔にさらに皺を刻んで笑った。
「嬉しいこと言ってくれるね。別嬪さん、いっぱいサービスするよ」
「ありがとう!」
満面の笑み。つやつやと頬を湯気に光らせながら。
柴崎の表情が、大分柔らかくなったと手塚は安心する。
雪で大混乱する駅。右往左往する人々と、駅員の怒号。上下線とも依然運転見合わせだと言うので、二人はゲート下に向かった。うらぶれた路地にひっそりと軒を連ねる屋台村は、この非常時に却って賑わいを見せていた。立ち往生した客が、せめて空腹を満たそうと柴崎たちのように駅から流れて集まりだしたからだ。
経験はないが、戦後の闇市のように、その一帯だけ異様な活気を見せ始めている。
「あたし、こういうとこで飲むの、初めて」
わくわくした顔で、列を作り、順番待ちをしていた柴崎が言った。
確かに、彼女とは縁遠そうな、お世辞にも衛生的とはいえない小さな屋台だった。雪をしのぐので精一杯といった造り。4人も客が入ったら座席がいっぱいの。
おでん、と白抜きされた紫色の小汚い暖簾もすっかり雪に濡れて夜に滲んでいた。
「こういうとこが案外旨いんだぜ」
「よく来るの? あんたのイメージじゃないけど」
「ん、たまに」
飲み会の後、屋台のラーメンで締めるのがいいんだよな。言うと、柴崎は「男って気安く入れていいわよねー」と羨ましげに洩らした。
いま、席に着いた柴崎の膝には、手塚のマフラーが掛けてある。男物なので広げると割と大きい。
「冷えるから」
と彼が貸してくれた。おかげで、ドレスから覗く脚を相席になったおじさんたちに晒すことはない。
さりげない気遣いが嬉しかった。有難く拝借した。
あつあつの具を次々と注文する。大根、蒟蒻、厚揚げ、ごぼう巻き。卵は最後だろ。えー、牛筋好きなんだ、と好みの具財をお互いに知るのも楽しかった。
そう、こんなにも楽しい。
柴崎は思う。
さっきのディナーはなんだったんだろう、そう思えるほど、手塚と食べるおでんは美味しかった。ビールもぐいぐい進む。
……あったかいわ。
ほお、と息をつく。
雪なのに。軒から零れ落ちるほどどかどかと降ってるのに、何だかとってもあったかい。
手塚の表情も緩んでいる。ビールが回り始めたみたいだ。でもペースは抑えている。自分がつぶれるわけにはいかないと心のどこかでセーブをかけているのだろう。
律儀な男。
横目で手塚を窺って、柴崎はひとりごちる。
でもその律儀さが、今夜はとても頼もしく、好ましく映るのだった。
――あれから。
とりあえずホテルを出て駅に向かって、途中目ぼしいお店があったら入りましょ。
ダメなら駅まで行っちゃおう。駅周りならなんとかなる、きっと。どっか開いてる。
割とアバウトに決めて、雪の中に二人は繰り出した。
が、ホテルを出るか出ないかといったところでもう柴崎が雪に足を取られた。
危うく転びそうになる。
手塚がすかさず手を差し伸べて、バランスを失う柴崎を支えた。
柴崎は手塚の腕にすがりながら、なんとか足を踏ん張って、転ばないように前に進もうとした。が、いかんせん、履いているのが機能性を無視したお洒落なピンヒール。不安定なこと、この上ない。しかも、舗道に積った雪のせいでいつもの三倍は滑りやすくなっているときた。
「ひどい~。3万もしたのよ、この靴、びしょぬれ」
柴崎は半泣きだ。革が、革が痛んじゃう。
「長靴買ったほうがいいな」
手塚は柴崎のへっぴり腰を見て笑った。
「お前石川だろ。雪道、慣れてるんじゃないのか」
「慣れてますとも! 向こうじゃこんなヒールで雪の中歩く経験ないもんでごめんね!」
「はいはい。しようがないな」
噛み付く柴崎をいなしながら、不意に手塚が屈み込んだ。
地面に膝をつけるように、陸上のクラウチングスタートの要領で。
え、と思うまもなく、肩越しに促される。
「乗れよ。おぶされ」
雪と同化する、真っ白なダウンコートの背が目の前にある。
柴崎は動けなかった。
「だ、だって、」
「いいから早く」
「恥ずかしいもん。おんぶなんて、この年で」
左右に目を走らせる柴崎。周囲の目を意識する振りで躊躇を隠す。
「年は関係ないだろ。お前が言ったんだぜ、この雪で誰もほかの奴なんか見てないって。大丈夫だよ」
「だって、あたしもそれなりに重いし」
引き出物もあるし、と訳の分からない言い訳は、まことに柴崎らしくない。
手塚はしゃがんだ格好のままじれたように言った。
「いいから。こちとら伊達に鍛えてないんだ、毎日。信用しろ、大丈夫だから」
お前が転んだりして怪我するほうが堪えるんだよ、と、それは彼女を見ないで地面に投げるように言った。
柴崎は広い背中を見下ろしながら、覚悟を決める。
そっと肩に手を掛けた。
「……乗るわよ」
そろそろと身体を預ける。おんぶなんて、子供のころ以来で、どうやって馬に乗っていたか身体が忘れしまっていた。
と、なんとか手塚の背に乗ったのを確認すると、手塚はすっくと立ち上がった。
まるで負荷を感じさせない動きで。
あ、と思うまもなく、柴崎の視界がいきなり開けた。
高い。吹きつける雪が顔にまともに当たる。
わあ、と少女のように声を上げた。
「すっ……ごーい。高ーい! あは。高いわ、手塚」
「こら、はしゃぐな。人の背中で」
手塚は屈み直して、足元に置いてあった引き出物の紙バックも後ろ手のまま持ち上げた。体勢を整える。
「あんたの目線っていつもこの高さなんだ。空が近いわー」
柴崎は彼の肩に張りついたまま、上を見上げっぱなしだった。
その頬に、まつげに雪は後から後から降りしきる。
もう一度肩越しに振り返って、手塚は言った。
「行くぞ。落っこちないようにしっかりつかまってろ」
「ん」
手塚が歩を進める。と、ざくざくと、小気味よい音が足下からあがった。
まったくぶれない姿勢。揺るがない足取り。
確かに、毎日鍛えていると分かる、堅実な歩みだった。
これなら、自分をおぶってでも武蔵野に帰るといった手塚の言葉もあながち冗談とも思えない。
ううん、きっと……。
この男は本気でそうする。いざとなったら。
夜通し歩く気でいるんだ。雪の中、あたしを背負って。
「……」
柴崎はそっと手塚の首に腕を回した。
周囲の音を雪が吸い込んで、渋滞への苛立ち紛れに鳴らされた車のクラクションも、雪を踏み荒らして歩く人たちの足音も遠ざかる。
しがみつかれたのを、バランスを崩したのかと思い、手塚が歩調を緩めた。
「大丈夫か? 速い?」
「……ん、平気」
だいじょうぶよ。柴崎は、心から答える。
あんたがいてくれるなら、大丈夫。
大雪も、何も怖いこと、ない。
後ろの言葉は、呑み込んだ。
あまりにもこの真っ白な聖夜に似合いすぎて。照れくさくてとてもじゃないけど、口にできそうにはなかった。
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そして、柴崎かわいいぞ!!
もうどうしてくれようって感じです。
どうするんだ、手塚!!!
今日の叫びです…
ほんとにこんなに可愛い柴崎を隣に座らせてるのにねえ。>たくねこさん
うちの手塚は、ホント、とほほ…(TT)
靴屋に走ってブーツを買う?とレス下さった方。
そんな気遣いはできない男みたいですいません。。。