(【3】へ)
わが身を恥じて、とんぼ返りしようかとも考えたけれど。
堂上と会って、話しているうちに冷静さが柴崎のもとへ戻ってきていた。
せっかくここまで来たのなら、何かできることをして帰りたい。
自己満足といわれるかもしれない。思いつきでやるのは、逆に失礼かもしれない。
それでも、何もせず帰るよりはずっといい。
隣をゆく、律動的な足取りの堂上をそっと見ながら自分に言い聞かせる。
この人に、この人に率いられて任務に当たっている、手塚や郁たちに近づけないまでも、恥じない自分でいられるように。
やれることを、やる。
「覚悟できてる顔だな」
ふと、堂上が笑みを浮かべた。視線を感じ、マスク越しに分かるんですかと天邪鬼に思ったが、口には出さなかった。
代わりに、
「できてますよー。遅ればせながら」
そう返した。
「なあ。なんかすごい美人が避難所に来てるって」
物資補給のため町に出ていた隊員が、図書館に戻ってくるなりそう切り出した。
「美人? タレントかなんかだろ。慰問の」
「それがどうやら違うらしい。一般の、ボランティアらしいんだよ」
「お前耳ざといな。どっからそんなうわさ仕入れて来るんだよ。乾電池買いに行っただけだろーが」
「だからあっちで話題になってるんだって。それぐらい美人ってことだろ」
「ほんと? 見てえなー」
「~~あのね」
見かねて(聞きかねて?)郁が割って入った。くるりと背後を振り返り、
「あんたたちねー。雑談も大概にしてさっさと仕事に戻んなさいよ。やんなきゃなんない仕事は山積みなんだからね」
腰に手を当てて隊員を睨む。
「は、はいっ。申し訳ありません」
階級が郁よりいくつも下の隊員なわけで、注意され直立不動の体勢になる。蛇ににらまれた蛙だ。
「浮かれてちゃ今日の仕事も今日中に終わらないよ。さ、さっさと作業作業」
「了解です」
敬礼をし、あたふたと持ち場に戻っていく。
「おっかねえ。鬼堂上降臨だな」
手塚が目を眇めて笑う。防塵マスクをしているせいで、声がくぐもって聞こえた。
郁は肩を怒らせ、「なんとでも言って。たく、最近の若い連中は緊張感が足りなくていかんわ」足元に広げたブルーシートに膝をつく。
「お前の口から若い連中って聞くと、同期としては複雑だな」
「あんたももういい年なんだから、早く身を固めたら? ――柴崎と」
「な……っ、」
手塚が手にしていた本を取り落としそうになる。お手玉になったが、かろうじてキャッチ。
「ばればれー。あんたも難儀なやつー」
けらけらと笑う。手塚はぶんむくれた。
「五月蝿い。放っとけ」
耳たぶまで赤い。これ以上からかっちゃ可哀相かなと思い、郁は手塚から渡された本を等間隔にブルーシートに並べていった。
今日の仕事は津波で海水と泥をかぶった本の洗浄だ。洗浄といっても水で洗うわけにはいかない。汚れを落とす特殊な液薬で一冊一冊、表紙からページから丹念に拭い取って乾かしていく。そうしないと細菌が発生して最終的に本全部がやられる羽目になる。
在庫数は数千冊に及ぶ。幸い、この町の図書館の本は海水をかぶっただけで流されずに済んだ。気の遠くなる作業だが、やらないわけにいかない。
立ち通し、屈みっぱなしで腰が痛い。
凝った肩を揉み解しながら郁が尋ねた。
「で、柴崎には連絡してるの? こっち来てから」
手塚は背中でそれを聞いた。しばしの沈黙の後、
「……お前は」
とだけ返した。
「してないんだ。なんだ」
だめだなあと念押しされたようで、手塚はくさる。
「電波も不安定だし、大した用事もないし」
「電話はともかく、メールとかでもすりゃいいのに」
「あいつに何の話題でメールするか、思いつかん」
取り付く島もないとはこのことか。郁は呆れる。
こいつ、こんなトーヘンボクだったっけ? 筋金入り?
「……別に元気か、とか、そっち変わりはないか、とか、どんな話題でもいいじゃん。中身なんていいの。メールは送ることに意味あるんだからさ」
と噛んで含めるように言って聞かせる。
手塚は目を見開かされたような思いで、それを胸のうち咀嚼した。
ゆっくりと郁に顔を向け、
「そうなのか」
探るように目で訊く。
「決まってるでしょ。送ったって送らなくたっていいような内容がほとんどだよ。恋人同士の間のメールなんて。別に昼ごはん何食べようが、栄養士じゃないかぎりカロリーだってわかんないんだし。でも知りたいじゃない? 何食べた?美味しかった?って訊きたいじゃない。好きな人には」
確かに。
そう頷こうとして、手塚ははっと気がついた。
「俺たち、別に恋人同士とかじゃないから」
律儀に訂正する。
郁は「ったくあんたの頭の固さはダイヤモンド以上だな!」ととうとう蹴りを繰り出した。
「そうこうしてると、どっかの鳶に油揚げ掻っ攫われちゃうよほんとに。そうなってから泣いて後悔したって知らないからね!」
憤然と立ち上がり、軍靴を鳴らして部屋を出て行こうとする。
「おい、どこ行くんだよ。任務中だぞ」
「トイレ!」
怒鳴ってドアをばんと開けて出て行った。大股で、動作一つ一つがとても男らしい。
一人残された手塚は、「そんな宣言していかなくたっていいだろ」と呆れ顔。
それから誰も聞く者がいないのに、声をすとんと落としてつぶやいた。
「それに、俺が泣くかよ。……後悔は、するだろうけど」
窓の外へ視線を逃がす。と、そこには満開の桜。
青空に咲き誇る、見事なソメイヨシノの枝が窓を横切っていた。
手塚は追憶に浸る。最後に会ったのはもう一ヶ月以上も前になるか。
東京の桜が見ごろになる前だった。こちらに赴いたのは。
図書館の前にある桜の木の下で別れた。
花吹雪に彩られた、柴崎の姿が脳裏に繰り返し蘇る。
何度も何度も。
はかなくて美しすぎて、その光景は思い出すたび手塚の胸を熱く灼く。
柴崎。
どうしてる。元気でいるか。
お前に出した葉書。無事に届いているとしたら、もうとっくに着いている頃だよな。
何度も書き直して、推敲して、迷って。ポストに投函するのにもかなり勇気が要った。ひと月以上って言ったら、どっかの鳶にお前を攫われてもおかしくない期間だよな。
こんなに離れていたことはない。
今、何してる。何を想ってる。
隣には誰かいるのか。
手塚の目に映るのは、純度の高い晴れ渡った空と桜ばかり。
ひらひらと、風に花びらが踊る。
――会いたいよ、お前に。一目でも。
手塚は願った。
焦がれるその女(ひと)が、すぐ傍に来ているとも知らず。孤独な心は桜に静かに塗りつぶされていく。
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わが身を恥じて、とんぼ返りしようかとも考えたけれど。
堂上と会って、話しているうちに冷静さが柴崎のもとへ戻ってきていた。
せっかくここまで来たのなら、何かできることをして帰りたい。
自己満足といわれるかもしれない。思いつきでやるのは、逆に失礼かもしれない。
それでも、何もせず帰るよりはずっといい。
隣をゆく、律動的な足取りの堂上をそっと見ながら自分に言い聞かせる。
この人に、この人に率いられて任務に当たっている、手塚や郁たちに近づけないまでも、恥じない自分でいられるように。
やれることを、やる。
「覚悟できてる顔だな」
ふと、堂上が笑みを浮かべた。視線を感じ、マスク越しに分かるんですかと天邪鬼に思ったが、口には出さなかった。
代わりに、
「できてますよー。遅ればせながら」
そう返した。
「なあ。なんかすごい美人が避難所に来てるって」
物資補給のため町に出ていた隊員が、図書館に戻ってくるなりそう切り出した。
「美人? タレントかなんかだろ。慰問の」
「それがどうやら違うらしい。一般の、ボランティアらしいんだよ」
「お前耳ざといな。どっからそんなうわさ仕入れて来るんだよ。乾電池買いに行っただけだろーが」
「だからあっちで話題になってるんだって。それぐらい美人ってことだろ」
「ほんと? 見てえなー」
「~~あのね」
見かねて(聞きかねて?)郁が割って入った。くるりと背後を振り返り、
「あんたたちねー。雑談も大概にしてさっさと仕事に戻んなさいよ。やんなきゃなんない仕事は山積みなんだからね」
腰に手を当てて隊員を睨む。
「は、はいっ。申し訳ありません」
階級が郁よりいくつも下の隊員なわけで、注意され直立不動の体勢になる。蛇ににらまれた蛙だ。
「浮かれてちゃ今日の仕事も今日中に終わらないよ。さ、さっさと作業作業」
「了解です」
敬礼をし、あたふたと持ち場に戻っていく。
「おっかねえ。鬼堂上降臨だな」
手塚が目を眇めて笑う。防塵マスクをしているせいで、声がくぐもって聞こえた。
郁は肩を怒らせ、「なんとでも言って。たく、最近の若い連中は緊張感が足りなくていかんわ」足元に広げたブルーシートに膝をつく。
「お前の口から若い連中って聞くと、同期としては複雑だな」
「あんたももういい年なんだから、早く身を固めたら? ――柴崎と」
「な……っ、」
手塚が手にしていた本を取り落としそうになる。お手玉になったが、かろうじてキャッチ。
「ばればれー。あんたも難儀なやつー」
けらけらと笑う。手塚はぶんむくれた。
「五月蝿い。放っとけ」
耳たぶまで赤い。これ以上からかっちゃ可哀相かなと思い、郁は手塚から渡された本を等間隔にブルーシートに並べていった。
今日の仕事は津波で海水と泥をかぶった本の洗浄だ。洗浄といっても水で洗うわけにはいかない。汚れを落とす特殊な液薬で一冊一冊、表紙からページから丹念に拭い取って乾かしていく。そうしないと細菌が発生して最終的に本全部がやられる羽目になる。
在庫数は数千冊に及ぶ。幸い、この町の図書館の本は海水をかぶっただけで流されずに済んだ。気の遠くなる作業だが、やらないわけにいかない。
立ち通し、屈みっぱなしで腰が痛い。
凝った肩を揉み解しながら郁が尋ねた。
「で、柴崎には連絡してるの? こっち来てから」
手塚は背中でそれを聞いた。しばしの沈黙の後、
「……お前は」
とだけ返した。
「してないんだ。なんだ」
だめだなあと念押しされたようで、手塚はくさる。
「電波も不安定だし、大した用事もないし」
「電話はともかく、メールとかでもすりゃいいのに」
「あいつに何の話題でメールするか、思いつかん」
取り付く島もないとはこのことか。郁は呆れる。
こいつ、こんなトーヘンボクだったっけ? 筋金入り?
「……別に元気か、とか、そっち変わりはないか、とか、どんな話題でもいいじゃん。中身なんていいの。メールは送ることに意味あるんだからさ」
と噛んで含めるように言って聞かせる。
手塚は目を見開かされたような思いで、それを胸のうち咀嚼した。
ゆっくりと郁に顔を向け、
「そうなのか」
探るように目で訊く。
「決まってるでしょ。送ったって送らなくたっていいような内容がほとんどだよ。恋人同士の間のメールなんて。別に昼ごはん何食べようが、栄養士じゃないかぎりカロリーだってわかんないんだし。でも知りたいじゃない? 何食べた?美味しかった?って訊きたいじゃない。好きな人には」
確かに。
そう頷こうとして、手塚ははっと気がついた。
「俺たち、別に恋人同士とかじゃないから」
律儀に訂正する。
郁は「ったくあんたの頭の固さはダイヤモンド以上だな!」ととうとう蹴りを繰り出した。
「そうこうしてると、どっかの鳶に油揚げ掻っ攫われちゃうよほんとに。そうなってから泣いて後悔したって知らないからね!」
憤然と立ち上がり、軍靴を鳴らして部屋を出て行こうとする。
「おい、どこ行くんだよ。任務中だぞ」
「トイレ!」
怒鳴ってドアをばんと開けて出て行った。大股で、動作一つ一つがとても男らしい。
一人残された手塚は、「そんな宣言していかなくたっていいだろ」と呆れ顔。
それから誰も聞く者がいないのに、声をすとんと落としてつぶやいた。
「それに、俺が泣くかよ。……後悔は、するだろうけど」
窓の外へ視線を逃がす。と、そこには満開の桜。
青空に咲き誇る、見事なソメイヨシノの枝が窓を横切っていた。
手塚は追憶に浸る。最後に会ったのはもう一ヶ月以上も前になるか。
東京の桜が見ごろになる前だった。こちらに赴いたのは。
図書館の前にある桜の木の下で別れた。
花吹雪に彩られた、柴崎の姿が脳裏に繰り返し蘇る。
何度も何度も。
はかなくて美しすぎて、その光景は思い出すたび手塚の胸を熱く灼く。
柴崎。
どうしてる。元気でいるか。
お前に出した葉書。無事に届いているとしたら、もうとっくに着いている頃だよな。
何度も書き直して、推敲して、迷って。ポストに投函するのにもかなり勇気が要った。ひと月以上って言ったら、どっかの鳶にお前を攫われてもおかしくない期間だよな。
こんなに離れていたことはない。
今、何してる。何を想ってる。
隣には誰かいるのか。
手塚の目に映るのは、純度の高い晴れ渡った空と桜ばかり。
ひらひらと、風に花びらが踊る。
――会いたいよ、お前に。一目でも。
手塚は願った。
焦がれるその女(ひと)が、すぐ傍に来ているとも知らず。孤独な心は桜に静かに塗りつぶされていく。
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そして目に浮かぶさくらがきれいです。
泣きたくなるぐらい…
散った後の葉桜も、水溜りに濡れ落ちるはなびらもまた格別です。
今しばらく連載にお付き合いください。