サンマといえば秋の風物詩だろう。しかし、私がサンマを想うのは、レインコートが手放せない梅雨の季節である。
「くさい」が口癖の父だった。ヘビースモーカーのくせに、部屋がヤニ臭くなるのが我慢できず、真冬の夜中でも窓を全開にして煙を吐き出していた。カボチャや空豆は洗濯前の靴下の匂いがするから嫌い。ネギを触った者はその日お茶を入れてはいけない、など我が家は尋常ならざるルールに支配されていた。
父はサンマが好物だったものの、家に匂いがつくのを厭い、七輪を使って屋外で焼くのが恒例となっていた。下町の密集地だったことから「炭火の扱いは難しい。お前達に任せると火事や魚の生焼けが心配だから俺が焼く」と父が宣言し、服に匂いが染み着くという理由で、着古したレインコートを着込んでの作業となった。
勝手口脇のわずかなスペースに七輪を据えて炭を熾し、サンマを網に載せる。コート姿がかすむ煙の中、焼き上がりを祖母と母でリレーよろしく食卓に運び込む。途中で雨が降り出したが止めるわけにはいかず、一人傘を差しながら焼いた時もあった。
家族7人分を大騒ぎで焼き終え、本人はビール片手にご満悦であるが、日頃、自分ではご飯すらよそわない「殿様」が焼くのである。皿に横たわるサンマ型をした炭の、苦く焦げ臭い味は、正直おいしいとは思えなかった。そしてそのコートは「洗濯機が臭くなる」との理由で洗われることなく密封保管され、年を追うごとにサンマの薫製のような色や匂いを身につけていった。
やがて家族は櫛の歯が欠けるように減り、サンマコートも出番を待ったまま、いつしか置き去られ、家だった場所に、今は見知らぬ誰かのビルが建っている。
雨が降り続く季節が巡ってくると、もうもうと煙立つ七輪の傍らでレインコートに身を包み、傘を片手に箸を持つ、在りし日の父を連れて、焦げたサンマの匂いが甦り、可笑しくて涙が止まらなくなってしまう。
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