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Tシャツとサンダルの候

上陽町石橋群 ひ・ふ・み・よ橋



1月とは思えない様な陽気が続く。

こんな日はチャリがいい。

折角だ。

どうせ行くなら車では寄り付きにくい、上陽の石橋群に行ってみようか。




上陽町には13もの石橋が点在している。

中でも、星野川添いに連続して続く、「ひ・ふ・み・よ橋」と呼ばれる四つの橋が有名だ。


スマホの目的地を、一番上流の洗玉橋に設定してと。

では出発だ。

後は、スマホの指示通りにペダルを漕ぐだけだ。



キコキコキコ



広川町の県道を漕いでいると、ポケットに入れたスマホから、


《ここから左が近道だよ~~ん》


とのメッセージが。


おや、そうかい。

気が利くねえ。

では、お言葉に従って、左に曲がるとするか。



キコキコキコ



4~5kmも進むと、気のせいだろうか。

だんだんとペダルが重くなってきた。



えーっと、これって・・・


所謂『山越え』っちゅうやつでないかい、スマホ君。

お気は確かですか。



漕げども漕げども、上り坂が終わらぬ。



ゼハー、ゼハー、ヒーーーー💦



こら、スマホッ!!

てめえこの野郎。

ちったあ、頭使えよ!

何でこんな道、教えるんだよ。




どうやらここがピークのようだ。

やっと登り切ったよ。


ブヒャー


えらい目に遭ったぜ。



山から降りてきた場所は、いきなり目的地の一つ寄口橋だ。

だがしかし、である。

冒頭でも書いたように、今回見て回るのは、数ある上陽石橋群の中でも、「ひ・ふ・み・よ橋」と総称して呼ばれる四つの橋なのだ。

名前からして順番がある事は、お分かりいただけるだろう。



寄口橋はなるべく見ないようにして、先ずは最初の目的地、洗玉橋へと急ぐ。




あれかな?




「ひ」 一つ目橋こと洗玉橋だ。

棟梁は有名な肥後の石工橋本勘五郎。

熊本の国指定重要文化財である通潤橋や、東京の万世橋や浅草橋などを手がけた名匠だ。

欄干も往時の姿をそのまま残している。



現在も、県道に架けられた橋の歩道橋として利用されている。






『明治二十六年五月三日竣功』とある。

「竣工」ではなく「竣功」。

現在ではあまり見ないが、当時は神社仏閣や古い橋などは、この字を当てる事もあったようだ。



上流側。

要石部に何やら赤い文字が見える。



説明板によると、

『肥後上益城矢部吹上兄弟橋 、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、 孫 為八』と、刻まれているとの事。



下流へ移動する。



「ふ」 二つ目橋寄口橋だ。

先程山から降りてきた際、見なかった事にして通り過ぎた橋である。

八女の石工山下佐太郎、上陽の大工小川弥四郎により、大正9年に架けられた。



驚くべきことに、車道として現在も使われる現役の橋なのだ。




現代人である我々は、先人達の技術の確かさに、思いを致さねばならぬ。

何たって、バスだって通れちゃうんだから。



更に下流へ下る。



「み」 三つ目橋こと大瀬(だいぜ)橋。

下流に下ってくる度に、ひとつづつ目が増えてくるのが面白い。

石橋であるのは上流側に架かる橋で、画像向かって右側がそうである。

無論この橋も、現役の車道として活用されている。



この画像を見ればよくわかるかな。

手前が石橋で、奥の方が後に作られた鉄筋コンクリート製である。



大正6年架設。




荻本卯作、川口竹次郎など、建築に携わった大工、石工達の名前が、アーチの頂上に刻まれているとの事。



最後の橋は、



当然「よ」 四ツ目橋となる。

宮ケ原橋。



こちらは道幅も狭く、歩道橋として使われている。

大正11年に豊島虎次郎により建築された。



星野川は、御多分に漏れず、何度も洪水を繰り返してきた河川である。

にもかかわらず、どの橋もびくともしていない。



大事に保存され、地域住民の重要な生活道路として、今も現役で頑張っている。



大したもんである。


季節になれば、これらの石橋のたもとには、蛍が乱舞する姿が見られるらしい。

また行きたい場所が増えてしまった。





では帰るとするか。

言っておくがスマホよ。

下手な口出しは無用だからな。

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