みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

詩「広島」が論文集に掲載されました

2022年04月05日 | シャルヘイ・ジャルハイ
 シャルヘイ・ジャルハイの詩「広島」について、2020年9月10日の記事にも書きましたが、1年半経って学術論文集に掲載されました。
 自分の翻訳が公式に発表されたことになって、うれしいです!

  ネットで検索して電子版を読みたいという方のために、この論文集の詳細をここに記しておきます。

Нацыянальная акадэмія навук Беларусі Дзяржаўная навуковая ўстанова
«Цэнтр даследаванняў беларускай культуры мовы і літаратуры НАН Беларусі» Філіял «Інстытут мастацтвазнаўства, этнаграфіі і фальклору імя Кандрата Крапівы» //
Зборнік навуковых артыкулаў «Традыцыі і сучасны стан культуры і мастацтваў» (Выпуск 3). Мінск : Права i эканомiка, 2022.
У зборніку змяшчаюцца даклады i тэзiсы ўдзельнікаў другога Міжнароднага навуковага Кангрэса беларускай культуры, які адбыўся 10 верасня 2020 года ў г. Мінску.
УДК [008+7](06)6.09 ББК 63.5
ISBN 978-985-887-005-8


 この論文集の535ページから537ページにかけて論文が執筆されています。
 執筆者名と論文タイトルはロシア語です。
Тацуми М., Яроцкая Ю. А.
Перевод белорусской литературы на японский язык как важнейший инструмент трансляции и популяризации культурного наследия

 「広島」だけではなく、マクシム・バフダノヴィチの短歌と詩、5作品とヤンカ・クパーラの詩「Спадчына(祖国)」の拙訳も掲載されて、うれしいです。
 今まで朗読会や文学会で、何度も自分の翻訳を朗読していましたが、きちんと印刷され、文献になったのは今回が初めてです。(このブログ上という電子の世界では自分で発表していましたが。)
 ベラルーシ学術機関には感謝しています。
 これで文字の記録として残り、歴史に名が残せましたよ。
 


(17) まとめ ロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」 

2021年08月11日 | サダコの千羽鶴
 1958年からロシア語圏で語り継がれる「サダコの千羽鶴の物語」は今もどこかで新しい作品が作られているはずです。
 その形は、詩、文学、歌、映画などの形を取っています。今では動画配信です。
 プロの詩人やミュージシャンだけではなく、子どもでもアマチュアでも、自由に詩を作ったり、歌を歌ったり、動画にしてシェアしています。
 学校の平和教育でも教材になっています。
 インスピレーションを与える「サダコと千羽鶴の物語」はこれからもロシア語圏で日本文化の一つとして創作され続け、それに触れる世代が続くでしょう。

 何かを信じて折り鶴を作り続けていた佐々木禎子さんのひたむきな姿は、視覚的にインパクトがあります。黒髪、着物姿、折り鶴を手にした様子は、異国情緒も相まって、外国人の意識の中でアイコン化されやすいです。
 ロシア語圏のばあいは、鶴が魂のシンボルであったことから折り鶴というアイコンも鎮魂のシンボルとして受け入れられやすく、サダコのイメージをさらに強め、人々に受け入れやすかったと思われます。
 そしてロシアでも鳩ではなく鶴が平和のシンボル、日本のシンボルとして定着しつつあります。これが外国の文化の広がりと言えます。

 広島平和記念資料館のサイトでアンケート調査の結果を見ることができます。
 あなたは「サダコと千羽鶴」の物語を知っていますか?という質問に対し、日本人は61%が知っていると答え、外国人は93%が知っていると回答しているのです。
 ただし、広島に千羽鶴を寄贈した外国人に質問しているので、当然知っている人が多いだろうという予想はされていたでしょう。
 どこか外国へ行って、そのへんを歩いている人100人をつかまえて、「サダコと千羽鶴の物語を知っていますか?」ときいたら、93人が「はい」と答えるとは思えません。

 しかし、日本人の「サダコの千羽鶴の物語」が外国でも広がっていることは明らかです。
 例えば「アンネの日記」を多くの日本人が知っているのと同じことです。アンネ・フランクは日本の中学校の教科書にも載っています。
 ロシア語圏だけでもこんなに長くそして多く語り継がれています。

(上記の広島平和記念資料館のサイト、企画展5の項目66「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」に旧ソ連の国はウクライナ、カザフスタン、ロシアは入っていますが、ベラルーシは入っていませんね・・・。ロシアと同一視されているのかなあと思ったのですが広まった国は黄色に塗られれた世界地図の画像も掲載されているので、ヨーロッパの部分を拡大して見たけれど、ベラルーシとバルト三国は塗られていませんね。
 旧ソ連の国で(あくまで推定ですが)最初に「佐々木禎子の鶴」という題名にフルネームを入れた詩を書いたのはベラルーシ語だったので、この地図を見ると悲しくなります。

 ちなみにこの広島平和記念資料館の企画展「サダコと折り鶴」は2001年に行われました。だからその時点での状況をデータにしたのかもしれないですが、「佐々木禎子の鶴」が書かれたのは1958年で、他にも「ソ連で『サダコと千羽鶴の物語』が広がっていました。」という内容の展示物がこの企画展で展示されているのだから、項目66「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」の世界地図は旧ソ連の国は全部黄色に塗っておかないと変です。説明文と地図の表示が合っていないですよ。
 ソ連が崩壊して、ベラルーシやバルト三国が独立した途端、「サダコと折り鶴が広まっている国・地域」から外されるのは間違いだと思います。

 リトアニアなんて杉原千畝のおかげで親日国だし、ソ連崩壊まではロシア語圏の国だったから、歌や文学で「サダコの千羽鶴の物語」が広がっていたと思うのですが・・・。リトアニアで自国内における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりを研究している人が発表してくれたら、日本人にも知ってもらえると思いますが、リトアニア語だと私は分からないので調べられませんし、旧ソ連の国とは言え、そこまで徹底的にリトアニア事情を調べる気はないです。)
 
 
 ロシア語圏、主に旧ソ連で「サダコの千羽鶴の物語」は広がり、進化し、語り続けられていることを日本人は知りません。
 そんなの知らなくても生きていけると言う日本人も多いし、外国でどう思われているか私に関係ない、と言う人も多いでしょう。
 しかし、せっかくですので私が調べて分かったことだけですが、このブログに日本語で載せておきます。
 ネット上で読めるようにしておけば、いつか1人ぐらいは、関心のある日本人が読んでくれるかなと思いますし、私は学術調査のエキスパートでもなく、著作権の関係で文学作品を和訳したわけでもないのですが、このブログが資料・情報として誰かのお役に立てるかもしれません。

 これでロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりについてのご紹介については一応終わります。
 でもまた新しい「サダコの千羽鶴の物語」を見つけたら、このブログでご紹介します。
 読んでくださった方、ありがとうございました。
 

(16) 歌「平和の鶴」(2013年)と「サダコの鶴」(2014年)

2021年08月11日 | サダコの千羽鶴
 2013年には歌「平和の鶴 Журавли мира」という曲がロシアのルイビンスクのバンド FLIGHT(2010年結成)によりリリースされます 。
 アルバム「Fall to Rise」 に収録されていますが、このバンドを紹介する音楽サイトで試聴できます。歌詞も掲載されています。

 このバンドはオルタナティヴ・メタル・バンドだそうです。なので、歌詞を全てシャウトしています。
 「平和の鶴」を聞きましたが、タイトルが与える印象とは裏腹に、ずっと激しくシャウトしています。
 公式サイトに歌詞を掲載してくれて助かりました。聞いているだけでは何を歌っているのか私は聞き取れないです。
 
 歌詞を文字で読むと冒頭に「8月の朝、日出づる国で」など広島の原爆に関する歌であることが分かるよう書いてあり、歌詞にも「太陽に向かって飛んでゆけ!」「毎日毎日紙を折りながら、自分の健康と人々を平和を祈ったサダコ」と出ています。
 はっきり「サダコと千羽鶴の物語」の歌です。
 そしてこの歌の歌詞では佐々木禎子さんが折った折り鶴の数は644羽説が採られています。
 ロシア語版「サダコと千羽鶴」の644羽説が21世紀になっても延々と伝わっています。
 歌詞の内容は文字で読むと、原爆の恐怖、生と死、平和希求、鎮魂の言葉が並び、作詞者が真摯に原爆や「サダコの千羽鶴の物語」を歌いあげようとしていることが伝わってきます。
 激しいシャウトの歌声も、平和への強い願い、魂の叫びとも取れます。
 オルタナティヴ・メタルというジャンルは、聞いている人に訴えかけるという意味で強烈なインパクトを与えます。
 「サダコの千羽鶴の物語」の持つ苦しみや悲しみ、病苦や闘病、サダコの死にたくない!という気持ちなどを表すには適している音楽のジャンルだと思えました。

 「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした歌は、美しいバラード調が多いのですが、2010年代になると、「侍の娘」といい、アーティストも自由なスタイルで作曲するように多様化していきます。

 2014年にはロシアのバンドFahrenheitが「サダコの鶴」という曲をYouTube上で動画配信しています。
Fahrenheitというバンドについて調べてもあまり詳しく分からなかったのですが、サハ共和国のヤクーツクのバンドで、
 ボーカルの スラヴァ・シフツェフさんがリーダーのようです。
「サダコの鶴」はYouTubeで試聴することができます。
「Песня "Журавлики Садако". Группа "Fahrenheit", вокал - Слава Сивцев」で検索してみてください。
 こちらは美しいギター弾き語りの歌です。
 テーマは「サダコの千羽鶴の物語」なのですが、さらっとこういう曲を作る事ができるんだろうなあと驚きです。
(失礼ながら、スラヴァ・シフツェフさんのプロフィール写真を見ると、ロシア人には見えませんでした。ヤクート人でしょうか。間違っていたらすみません・・・。大国の少数民族が、サダコの千羽鶴の歌を作って歌い続けてくれているのは、ありがたいことですし、注目に値します。
 こうして遠いところのミュージシャンの歌もインターネットのおかげで、世界中で視聴できる時代になりました。
 これも文化の広がりに有効なツールで簡単に情報を得られる時代にどんどん変わったと実感できますね。

 「サダコの千羽鶴の物語」も様々な角度からアプローチされてきて、それでいいんだよという許容度も広がったと思います。
 アーティストの皆さんは真摯に向き合っている姿勢が感じられて、日本人としてロシア語の歌を作ってくれて嬉しく思います。


 (それにしてもほぼ毎年のように「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにしたロシア語の歌が作られているとは驚きです。アーティストにインスピレーションを与える何かがサダコさんにあるのかなあと思いました。)


 画像は「平和の鶴」が収録されているFLIGHTのアルバムのジャケット。音楽紹介サイトからお借りしました。

(17)に続く。

(15) 歌「侍の娘」と「Song for Sadako Sasaki」 (2012年)

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 2012年に佐々木禎子さんに捧げられた歌がロシアで2曲発表されました。

 一つはタンボフのミュージシャンの曲「日本の鶴 Song for Sadako Sasaki」です。「日本の鶴」という歌はもう1971年に作られたので、タイトルに差別化を図らないと、同じような題名ばかりになってしまいますね。
 と思えてくるぐらい大量の「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語圏内に生まれているのです。
 
 「日本の鶴 Song for Sadako Sasaki」は作詞タチヤーナ・クルバトワ、作曲オリガ・エゴロワ、作曲パーベル・エゴロフ、歌アントニーナ マシェンコワです。
 YouTubeのオリガ・エゴロワのチャンネルで視聴できます。
「Песни Ольи Егоровой.Японский журавлик.Song for Sadako Sasaki」で検索してみてください。
 歌手の声がとてもきれいです。声域が広くて、熱唱系バラードで、平和希求、鎮魂のメッセージが熱唱されています。動画の映像も広島の原爆やサダコの千羽鶴の物語に忠実であろうという真摯な姿勢が感じられます。反戦ソングのお手本のような歌です。

 タンボフのミュージシャンが作った歌ということで思い出すのはタンボフの詩人イワン・クチンの「千羽の白い鶴」です。


 同じく2012年にロシアのサンクト・ペテルブルグのバンド、スプリン(2014年結成)が「Дочь самурая(侍の娘)」という楽曲をリリースしました。
 この歌はアルバム「Обман зрения 」に収録されており、佐々木禎子に捧ぐと献辞されています。
 しかし、歌詞にはサダコの名前もないです。「田んぼの上を飛行機が飛ぶ」という歌詞はあるので、日本の上空を飛んでいるエノラ・ゲイのことを歌っているのかと予想はできます。「真剣になれ、侍の娘!」というフレーズもありますが、これがサダコのことを指しているのかも不明。日本人の少女という意味で侍の娘という表現を使っているように思えます。

 そしてメロディーはSong for Sadako Sasakiのような今までの「サダコの千羽鶴の物語」にありがちなバラード調ではなく、ロック調です。時代ですねえ。
 21世紀のロシアのロックバンドが、「佐々木禎子に捧ぐ! 『侍の娘』!」と歌って、ファンは「クール!」と喜び、しゃれたプロモーションビデオまで作ってしまう時代になりました。
  
 さて、この歌のプロモーション・ビデオですが、TouTubeで視聴できます。
 歌詞の内容より、動画のほうがある意味において日本らしかったです。
 関心のある方は「Дочь самурая Сплин」で検索してください。
 
 舞台はロシアのどこかの高校。なぜかチャイナドレス姿の先生が、生徒に習字を教えている。書いている言葉は日本語で「侍の娘」。そこへ日本人の転校生が入ってくる。これこそ侍の娘。その姿は本当に原宿にいそうな女子高生。その子も習字を始めたら、後ろの席の誰かが半紙を丸めて投げ、日本人女子が書いた習字の紙は破れてしまう。クラス中に起こる嘲笑。(いじめ・・・)
 侍の娘は立ち上がり、周囲にガンを飛ばす。喧嘩が始まるのかと思いきや、日本人女子は半紙を折って、鶴(日本と平和のシンボル)を作る。何してんの?と覗き込むロシア人高校生。誰も喧嘩はしなかった。(かと言って侍の娘が敗北したのではない。)

 いやあ、すてきな内容の動画ですね。そうそう、喧嘩やいじめ(戦争)より、平和ですよ、平和。
 
 はっきり言って、献辞があるところ以外、「サダコの千羽鶴の物語」に直接通じる部分は少ないですが、今の時代、世界に平和を!と叫んだり祈ったりするより、まずは「クラスに平和を! 人種差別はやめよう!」と若者世代にロックで訴えるほうが、世界平和につながるのですよ・・・というミュージシャンの姿勢にとても共感できました。

 2010代にロックバンドのメンバーになっている世代が、侍の娘といえば日本人女子でしょ、日本人少女と言えばサダコでしょ、サダコといえば折り鶴でしょ・・・という発想になるほど、「サダコの千羽鶴の物語」が頭にインプットされるようになりました。
 ただ、もうサダコはおかっぱ頭に着物姿のステレオタイプではなく、その時代の最先端ファッションに身を包んだティーンエイジャーに変身までしているのです。

 そして、侍の娘は強い侍の子どもなんだから、精神的に強い日本人少女という意味が込められていると思いました。
 病と闘いながら折り鶴を作り続けた佐々木禎子さんは精神的に強い少女であるという捉え方です。
 そして、人種や性別に関係なく精神的に強い侍の娘にみんななれと、応援している歌なのだと感じました。
 だからこの歌は「強い精神力を持っていた佐々木禎子さん」に捧げられているのです。

 Song for Sadako Sasakiはソ連時代からの流れに続く典型的反戦ソングです。ある意味ステレオタイプです。しかし「侍の娘」は世界平和に目を向けているのではなく個々の心の中に向けて、メッセージを送っています。精神的な闘いに注目しています。
 個人としての強さがテーマです。これも「サダコの千羽鶴の物語」が持つ一面だと言えます。佐々木禎子さんは病床で黙々と鶴を作っていました。「世界が平和になりますように。」と考えながら折っていたのではなく、「自分の病気が治りますように。」とあくまで個人的な願いのために鶴を折っていたはずです。そして最後まであきらめようとしませんでした。
 「サダコの千羽鶴の物語」は世界平和という大きな目標を持っているように見えますが、その出発点はただ1人の少女のプライベートな願いという小ぢんまりとしたものでした。
 ただ小さい出発点から、今はグローバルに広がったということです。
 そして捉え方も多様化していきました。


 余談ですが・・・この動画の中で転校生の役をした人が、かわいいし、本当に東京に行ったら道端で会えそうというぐらい、日本にいそうな女の子なので、どこの誰なのかネットで調べてみました。
 するとこの歌がリリースされたときのロシアの芸能ニュースサイトで「ロシアに留学中の本物の日本人が出演した。」と書いてある記事を見つけて、やっぱり日本人なんだ! と思い,さらに調べると「モスクワに住んでいるクリスチーナ・リーさん」であることが分かりました。名字がリーって・・・本当に日本人なの? 私のカンではちがいますね・・・。
 クリスチーナ・リーさんがネットで公開しているお誕生日から計算すると、動画の撮影当時は16歳か17歳。(高校生でロシアに留学?)母国語もロシア語みたいなので、生まれも育ちもロシアという東洋系の方ではないかなと思いました。日本人ではなさそう。
 でもクリスチーナ・リーさんはかわいい。折り鶴も上手に折れる。新しいサダコ像になりました。人種などもうどうでもよいと思いました。

 画像はスプリンのYouTube公式チャンネルからのスクリーンショットです。
 おかっぱ頭の女子小学生が折り鶴を持っているというステレオタイプから、スタイリッシュな女子高生に進化しましたね。

(16)に続く。
 

(14) 詩と俳句 2010年以降

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 ソ連が崩壊し、15の共和国が独立国家として歩み始めます。
 経済的にも混乱し、文化などに心の余裕もない時期がしばらく続きました。
 この時代は目の前の問題に精一杯で、第二次世界大戦の反戦アイコンを思い出すことも少なくなった時期でした。ロシア語圏における「サダコと千羽鶴の物語」の広がりが停滞した時期です。

 一方で、ソ連時代の表現の自由の制限もなくなりました。
 そしてインターネットの時代が始まります。
 ロシア経済が持ち直すと、余裕も生まれました。

 その結果、詩作が趣味です、というロシア人(ロシア語創作者)が、プロアマ問わず、詩を作ってはサイトに投稿し、広く読んでもらうという新しい表現の場が生まれました。
 そんな中で「サダコの千羽鶴の物語」をテーマにする詩人が驚くほどたくさんいることが分かりました。

 日本人の私からすると、まず思ったのは、ロシア人(ロシア語創作者)は詩が好きだということです。日本人の感覚では、ピンとこないと思います。
「趣味は何ですか。」
と尋ねると、
「詩を書くことです。」
と答える人がたくさんいます。ただし、詩というものにすごく高いレベルをみんな(聞く側、読む側)が求めるので、詩作が趣味でも、自信のない人は「趣味は詩を書くことです。」となかなか言いません。「趣味は詩を書くことです。」と堂々と答える人は、相当自信がある人です。
 誕生日に詩を書いてプレゼントするのは普通。もらった側もすごく喜びます。
 学校の国語の授業のテストは詩の暗唱ばっかりです。
 プロの詩人はすごく尊敬され、大統領選挙に出馬する人もいます。詩人から政治家に転身する人も多いです。(マクシム・タンクルスラン・ガムザトフもそうですね。)

 「佐々木禎子さんに捧げられたロシア語の詩がこんなにあるんですよ。」と言われても、多くの日本人は「詩? ふーん。」で終わってしまうと思いますが、ロシア語圏では、詩という文化に重きを置いているということだけは認識してもらったうえで、この記事を読んでほしいです。

 さてこのように詩という文学スタイルがレベルの高いものとされているロシア語圏で、プロアマ問わず「サダコの千羽鶴の物語」を詩題に選んで書いては、ネット上で公表する人が多いので、びっくりしました。
 私がネットで検索しただけで18作品ですが、実際にはもっとたくさんあると思います。また今日書いている人も世界のどこかにいると思います。
 多すぎるので詩の内容は著作権の問題もあるし訳しません。でもタイトルは作品発表年の古い順からざっと訳してみます。

「鶴(複数形)」作品中にサダコと明記。2010年の作。

「少女、佐々木禎子とその記憶に捧ぐ」2011年8月号の雑誌に掲載。

俳句形式(三行詩)で題名はないが、「佐々木禎子さんと長崎と広島で白血病で亡くなった全ての子どもたちに捧ぐ」と献辞。

「サダコ・ササキに捧ぐ」

「ああ、人々よ!」作品中にサダコと明記。ロシアの女子高校生が作者。

「鶴(複数形)」佐々木禎子に捧ぐと献辞。

「千羽鶴」黒い雨、白血病という言葉が作中にあり、406羽の折り鶴を作ったともありますが、これも詩人としての語感で書いた数字と思われます。 

「鶴よ、鶴」作中にサダコ・ササキと明記。

「サダコ」5行詩なので、題名はあるけれど短歌形式の詩と思われます。

「佐々木禎子と千羽鶴」

「少女サダコへの祈り」600羽と少し折ったと作中に書かれています。担当医の名前は「マコト・オサム」にしているので、クチンの詩「千羽の白い鶴」が下敷きにした作品だと思われます。

「サダコ・ササキの記憶に捧ぐ」

「鶴(複数形)」勇気ある日本の少女サダコ・ササキに捧ぐ、と献辞。作中に664羽折ったとあります。

「サダコ」作品最後に佐々木禎子さんの紹介文まで書いてあります。ここでも664羽折ったと説明しています。

「サダコ・ササキ」

「鶴(複数形)」作品中にサダコと明記。

「折り鶴は幸運のシンボル」作品中にサダコと明記。

「鶴」佐々木禎子に捧ぐと献辞。2019年の作。

 こんなにロシア語でサダコの名前が詩の中に出てくるのです。
 詩という言葉の力によって鎮魂ができるとロシア語詩人は考えているのだと思いました。また反戦の声を上げることもできるし、平和を訴えることもできると信じているのでしょう。

 日本人の感覚では分かりにくいかもしれません。
 例えば、日本人で「私の趣味は俳句です。句会の会員です。」「短歌を作ることです。」という人が、「アンネの日記」を読んで、
「すごく感動した! やっぱり人種差別も戦争も反対だ! この気持ちを俳句にしよう! 『ああ、アンネ・・・』」と句や短歌を書き始める人はあまりいないと思うんですね。

(とここまで書きながら、いや、もしかしたらいるかも、と思ってネットで検索したら、アンネという名前をちゃんと入れた日本人歌人による日本語の短歌を一首だけ発見しました。)

 ところが、ロシア語圏では「サダコの千羽鶴の物語」を読んで、「すごく感動した! この気持を詩にしよう! 『ああ、サダコ・・・』」と作品にしてしまう。しかもそうしている人がとても多い。

 他にも日本人が句会で「今日のお題は『戦争反対・平和への願い』です。」というのはあっても、個人の名前を入れよう、というのはあまりないのではないかと思います。「今日は『アンネ・フランク』という言葉を入れた短歌をみんなで作ってみましょう。」ということ、あるのでしょうか?
 ところがロシア語圏では、詩の中に人名、しかも外国人の名前が「サダコ!」「ササキ!」と繰り返し多数登場するのです。

 このように日本人の想像していないことがロシア文学界では当たり前のように続いているのです。
 それにしても佐々木禎子さんのご遺族は、禎子さんの名前がこんなに詩の中で書かれていることも、献辞を捧げられていることも知らないんですよね。
 驚くのか、サダコはとっくに世界的反戦アイコンになっているから今更何とも思わないのか、それとも嬉しく思うのか、あるいは不愉快に感じるのか、私は遺族ではないから分かりません。
 でももし遺族だったら、とりあえずどんな作品に名前を(ある意味無断で)書かれているのか気になるとは思います。
 もっとも佐々木禎子さんのことを悪く書いているロシア語作品は私が知っている限りではありません。

 また上記の詩の大部分は、アマチュア詩人、つまり詩作が趣味という一般人が書いているうえ、ソ連も崩壊した後のロシア語圏に住んでいる普通の人々が自ら「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにして書いたものです。
 ここにソ連時代のような「原爆を落としたアメリカは非道な国である」という宣伝を文学作品でするようにというプロ詩人への、政府からの隠れた指示はありません。
 ソ連はなくなり、核兵器ちらつかせながら牽制し合う米ソ冷戦時代は終わり、国家公務員でもないアマチュア詩人が書く「サダコの千羽鶴の物語」は純粋に鎮魂、戦争反対、平和希求の内容ばかりです。
 さらにネットの力により、大量に発信され、数え切れないほど多くの人が目にするようになりました。

 こうして大量の「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語で詩に書かれる中で、曲をつけられる作品も再び出てきます。

(15)に続く。


(13)  児童文学「四人の少女への心」と文学賞(1988年)と四人の少女記念賞(1989年)

2021年08月10日 | サダコの千羽鶴
 1986年チェルノブイリ原発事故が発生してから、被爆して白血病に罹る子どもが増えたベラルーシとウクライナでは、別の視点で「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する流れが生まれました。
 
 すでにロシアの児童文学作家ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が1962年に「白い鶴」という短いお話を書いていましたが、同じくヤコブレフが1988年に「四人の少女への心」という文学作品を発表しました。
 この作品はユーリー・ヤコブレフ選集に収録されています。

 「白い鶴」より量も内容もずっと多いです。
 作家のヤコブレフは反戦をテーマにした児童文学作品を執筆するにあたり、当時すでに反戦のアイコンとなっていた4人の少女を選びます。そしてそれぞれを主人公にした4つの短編を書き、まとめて「四人の少女への心」を発表しました。
 今回私は原題「Страсти по четырём девочкам」を「四人の少女への心」と訳しましたが、「心」というより「情念」とか「魂の叫び」などに訳したほうがいい言葉です。でも、原題そもそもが児童文学作品らしいタイトルではないのですよ。
 作者の反戦、平和を求める気持ちが前面に押し出されているタイトルです。

 この選ばれた四人の少女は、ターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子です。
 アンネ・フランクは日本でも有名ですが、ターニャ・サヴィチェワ(「ターニャの日記」を書いたロシアの少女)は知らないという日本人が多いと思いますので、リンク先を貼っておきます。

 それと他の3人とは違ってサマンサ・スミスは戦後生まれなので、どうしてこの作品で選ばれているのか分からない、という人のためにもリンク先を貼っておきます。
 サマンサ・スミスはソ連では反戦のアイコンとして当時すでに有名で、
「この本を読んでいるみなさんも、サマンサちゃんのように平和を愛する心を持った人に成長してくださいね。戦後生まれのお手本ですよ。」
と作者は言いたかったのだろうと思います。

 さて、この本の第4章に佐々木禎子さんが登場します。ほとんど作者の想像の世界が書かれており、その分悲しくも美しい文章で、一人称が多用され(サダコの独白シーンが多い。)子ども読者の涙を誘う文章です。
 見つけにくいのですが、ロシア語でこの作品の第4章だけ読みたいという人のためにリンク先を貼っておきます。
 
 ここでは折り鶴の数にはこだわっておらず「あと一羽・・・あと一羽足りない。」とサダコが独白しているだけです。
 要するに999羽作ったという設定になっています。これも作者の文学者としてそうした、ということだと思います。


 ソ連時代、「サダコの千羽鶴の物語」をロシア語で紹介することは、原爆の残酷さを広めることでした。児童文学の形では、子どもに教えることになりますが、それが奨励されたのは、裏に反アメリカ思想があり、「原爆を落とすのなんてひどい国だね、アメリカは。」という意識を子どもに刷り込ませる隠れた意図がソ連政府にあったから、ともされています。その裏で核実験をソ連国内(今のカザフスタン)で何百回も行い、核兵器を製造して、核こそが戦争抑止力になるとか国民に説明をしておきながらです。

 ソ連時代のプロの作家は、原則全員国家公務員みたいなものなので、政府の命令に従って文学作品を作っていました。
 皮肉にもそのおかげで「サダコの千羽鶴の物語」も広がりました。
 しかし、この「四人の少女への心」には、アメリカ人のサマンサ・スミスが選ばれています。サマンサは平和大使であり、ソ連にも訪問したことのある米ソ友好のアイコンであり、反核のアイコンでもありました。
(佐々木禎子さんやアンネ・フランクのように10代で亡くなったのが選ばれた理由かもしれませんが。)

 そのサマンサが選ばれたのは、反アメリカ思想に基づいて児童文学作品を作らなくてよくなってきた傾向がソ連時代末期には出てきた、ということです。
 1985年にレーガンとゴルバチョフが初めて握手を交わしたことも影響を与えたと思います。
 核兵器をちらちら見せながら、相手を威嚇する米ソ冷戦時代は終了し、核の削減交渉が始まります。
 そしてソ連崩壊後は文学者の自由な表現が増えていきます。


 さて、この「四人の少女への心」が発表された翌年、1989年にソ連の平和擁護ソビエト委員会付属「世界の子供に平和を」委員会が「4人の少女記念賞」という文芸賞を設立しました。
 この4人の少女もターニャ・サヴィチェワ、アンネ・フランク、サマンサ・スミス、佐々木禎子となっています。
 世界平和、そして反戦をテーマにした優れた文学に与えられる賞です。
 第一回受賞者はロシア人ではなくアメリカの作家、パトリシア・モンタンドンです。
 メダルも作られ、さらに年の明けた1990年1月にモスクワで授与式が行われました。
 そのニュースが1990年にソ連の子ども向け新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載されました。
 画像は「4人の少女記念賞」のメダルの写真と4人の少女の紹介記事です。
広島平和記念資料館サイトではこの賞は1988年に設立されたと説明されていますが、誤りです。)

 この新聞記事内では、644羽折り鶴を折ったことになっています。ヤコブレフ作の「四人の少女への心」では999羽でしたが、新聞記者はコア作の「サダコと千羽鶴」で書かれた数字をそのまま写したようですね。

 残念なことにこの賞は1990年の第1回授与式が最初で最後でした。
 当時はペレストロイカの時代で、いよいよソ連が崩壊へと進んでいった時代です。
 国内の混乱のため「4人の少女記念賞」は1回の授与で終わってしまい、ソ連という国家も消えました。
 
 (14)に続く。

 

(12) 子ども向け新聞記事 (1988年)

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 1986年、チェルノブイリ原発事故が発生。放射能が拡散し、原爆ではなく原発事故によって数えきれないほどの人が被曝しました。その多くはベラルーシ人とウクライナ人です。
 被曝や白血病が身近な問題になりました。
 このころから放射能被曝による健康被害について、身をもって体験する、そして深く考えるベラルーシ人やウクライナ人が増えたと思います。
 広島や長崎の原爆という言葉が、今までとは違う響きを持つようになったのは1986年以降でしょう。
 白血病で命を落とす子どももベラルーシやウクライナで増えていきます。
  
 こうして子ども向けの文章で「サダコと千羽鶴の物語」がロシア語で紹介されることが増えました。

 例えば1988年5月31日付の新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に「サダコの千羽鶴」という記事が掲載されています。
 プラウダというのはソ連共産党機関紙で1912年創刊。ソ連政権樹立後は最大部数を誇る新聞となりソ連中で購読されました。そのプラウダの姉妹紙で、子ども向けの新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」がありました。ピオネール対象の新聞ということです。つまり、対象年齢は小学校3年生以上高校生までという設定です。

 そんな子ども向けの新聞などで、「サダコの千羽鶴の物語」は紹介されますが、チェルノブイリ原発事故後は、「原爆や戦争の犠牲になった子」という面ではなく「核や放射能の犠牲になった子。ベラルーシやウクライナでも白血病で死んでいる子がいる。」という面でとらえられるようになったと思います。

 画像は1988年5月31日付の新聞「ピオネールスカヤ・プラウダ」紙に掲載された「サダコの千羽鶴」の記事です。子ども向けに折り鶴のイラストも添えられています。
Статья в газете «Пионерская правда» от 31 мая 1988 года «Тысяча бумажных журавликов Садако»

(13)に続く。

(11) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 644羽説

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は少なくとも1300羽以上だったことがご遺族の話から分かっていますが、いろいろな数の説があります。
 ベラルーシ(ロシア語圏)では新聞記事の内容により、643羽説が広がっていましたが、1980年代以降は644羽説が広がりました。
 そのきっかけになったのは1977年にアメリカの児童文学作家エレノア・コアが英語で「Sadako and the Thousand Paper Cranes サダコと千羽鶴」という本を書いたからです。その中で「サダコは折り鶴を644羽作った。足りなかった分は二人の友人が作って棺に入れた。」と書かれているのです。
 英語の影響力は大きいです。
 ここから644羽説が世界中に広がりました。
 一方で、千羽作ろうと思ったけど644羽しか作れなかった。残りは356羽。これを友達二人が一晩で作り上げ、サダコのお葬式に持って行ってお棺に入れた(きっちり千羽の鶴といっしょにサダコは天国へ旅立った。)・・・というのは現実味がありません。
 単純計算で1人178羽の折り鶴を納棺に間に合うよう折りまくったことになります。
 また356羽の折り鶴を持ってきてお棺に入れた友達など存在していなかったことは遺族の証言から明らかです。

 やはり、このアメリカ人作家は、あくまで想像の世界、創作の世界でこの作品を執筆していると、念頭に入れてこの本を読むほうがいいです。
 それにしてもどうして644羽という数字を作者は選んだのでしょう。そういう数字を英語で書かれた新聞で読んだとか、643羽と聞いたことがあったが、英語で発音すると643より644のほうがきれいに聞こえる(ような気がする)ので、644という数字にしようという考えがエレノア・コアの頭の中に浮かんだ可能性もあります。

 実話を元にしたフィクションですよという前提があれば、折り鶴の数字なんていくらでも作者の好きなように書けるのです。
 でも純粋な子どもの読者は、これが正しいんだと思いこんでしまいます。

 ともかく英語で書かれ、さらに英語からの翻訳をするのは多くの翻訳家ができるので、この本は多くの言語に翻訳され、世界中に広がっていきます。もちろん日本語訳も出版されました。
 ロシア語版は1981年に初版が発行されたようです。(すみません、調べたけれど確証が得られませんでした。)

 こうしてロシア語圏には1980年代以降、644羽説が広がっていきます。
 画像はロシア語版「サダコと千羽鶴 Садако и тысяча бумажных журавликов」1987年度再版の表紙です。
"Садако и тысяча бумажных журавликов : Повесть : [Для мл. шк. возраста] Элеонора Корр; Перевод с англ. М. Кулиса; [Предисл. М. Дудина; Рис. С. Спицына] Л. : Дет. лит : Ленингр. отд-ние, 1987.

 明らかに原爆の子の像をイラストにしています。英語版の表紙は着物を着たサダコが折り鶴を持っていたりしてカラフルで、平和への希望が表れているのですが、ロシア語版はやはり「鎮魂」というイメージの絵が描かれていますね。
 ロシア語版では、出版社の判断で「小学生対象文学作品」とされています。

(12)に続く。


(10) 歌「折り鶴」 (1979年?)

2021年08月09日 | サダコの千羽鶴
 次にまた「サダコの千羽鶴の物語」を歌にした作品「Бумажные журавлики」が発表されました。
 直訳するとタイトルは「紙の鶴(複数形)」ですが日本語訳は「折り鶴」にしておきます。
 この曲が発表された時期を調べたのですが、はっきり分かりませんでした。
 おそらく1979年だと思いますが、確証がないです。ただどんなに遅くても1982年までには完成していたことが分かっています。
 すでに発表されていた歌「日本の鶴」(1971年)を踏まえた上で作られた楽曲ですね。

 注目すべきは作詞作曲歌がカザフスタンの女性という点です。
 作詞作曲はイリーナ・グリブリナ(1953−)、歌はローザ・ルィムバエワ(1957−)です。

 この歌を視聴したい方はYouTubeで検索してください。Бумажные журавлики Роза Рымбаева Ирина Грибулинаでヒットします。

 著作権などの事情により、私は歌詞は訳しません。
 ただ、言えることは、歌詞の中に佐々木禎子という名前は出てきませんが、「女の子は千羽鶴を作りながら死と対話していた。」「日本であの子は死んでしまった。」「広島の心の痛み、そして涙」というフレーズが出ています。
 明らかに「サダコの千羽鶴の物語」を歌詞にしています。

 歌「日本の鶴」は作詞者が男性で、日本から帰ってきた友人から「サダコの千羽鶴の物語」を聞いたから、シェアしたいという意思が全面に出ていました。
 この「折り鶴」は作詞者が女性なので、子どもに対する母性愛を前面に出した歌詞となっています。
「戦争で運命を変えられた広島の子どもたちのことを忘れないで」「子どもたちは済んだ目で空を見上げる。地上には悲劇が起こる。」
という内容の歌詞があり、本物の鶴ではなく、紙で作った鶴に対して、「空へ飛んでゆけ!」と呼びかけるのは、よくある表現ですが、さらに「いろんな色の紙の翼で地球を抱きしめて!」とサビで繰り返します。

 やはり詩の内容が女性的、母性的だと思います。
 旧ソ連時代、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場では1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験が繰り返されていました。健康被害も報告され、1991年8月29日に正式に閉鎖されます。
 ロシア語ですが、カザフスタン人によって書かれ、歌われた「折り鶴」は広島の原爆のことを歌っていますが、その背景には祖国にある核実験場のことがあったと思われます。 

 当時のソ連社会の構造、時代背景(戦後の時代、冷戦時代)を考えると、自国とは離れた国(日本)で被爆して死んだ少女のことを歌うことによって、暗に自国の核実験推進政策を批判しようという意図のある表現者がいてもおかしくありません。
 
 この歌そのものはヒットして反戦反核の歌として、ラジオで流されソ連中に広がっていきます。
 また米ソ冷戦時代においては、広島と長崎の原爆は悲劇であるからそのことを題材に反戦ソングを作るのは、
「こんな非道なことをした残酷なアメリカ。われわれの敵国はこんなにひどい国ですよ。」
と宣伝したいソ連としては、利用できる都合のいい歌です。
 だからラジオで全国に流されます。
 歌を作った人たちは、アメリカへの批判ではなく、純粋に戦争のせいで死んだ子どもの鎮魂、平和を求める気持ちで作っていたとしてもです。

 ところで、カザフスタン人がロシア語で「折り鶴」をいう曲を作ったと思われる1979年にはモンゴルで「ヒロシマの少女の折り鶴」という歌が作られました。その後毎年8月6日になると、ウランバートルの国営ラジオ局が放送します。
 こんな歌があるということが日本も知られたのは1992年になってからです。
 詳しくは「折り鶴は世界にはばたいた」(うみのしほ作 PHP出版)第4章に書かれています。
 要約すると、モンゴルから日本へ音楽留学していたオユンナさんが、新聞の取材で「モンゴルではみんな知っててよく歌います。」と紹介し、「日本人が知らないのでびっくりしました。」と話した。
 その後、日本のテレビ局の記者がオユンナさんに取材、さらに作詞作曲者を探してモンゴルへ取材。作詞者ヤオホラン・インへに取材。
 その説明によると、1977年にモンゴルの保養地で日本人の留学生と出会った。その日本人は折り鶴をインへさんにプレゼントし、佐々木禎子さんの千羽鶴の話をした。(その日本人が誰なのかテレビ局の取材では分からずじまい。)
 インへは「ヒロシマの少女の折り鶴」という詩を書いた。ダリザリフ・ダッシンニャムという軍所属の歌手が作曲。
 日本のテレビ局がドキュメンタリー番組を制作し、1993年に放映。
 このモンゴル語の歌は日本でも知られるようになりました。広島平和記念資料館にも所蔵されています。
 
(上記の引用先の文献で、76ページにモンゴルはソ連の影響下にあり、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」と書かれています。これが取材したテレビ局の1993年の認識として書かれたものなのか、本書が執筆された1998年の著者の認識によるものなのかはっきりしません。しかし、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」というのは間違いです。こちらの記事を御覧ください。1962年と1964年のソ連時代、すでにロシア語の本が出版されています。1979年までに佐々木禎子さんのことは1958年以降から新聞にも掲載されていたし、サダコに捧げる詩や歌が複数存在していました。)

 私としてはオユンナさんが「モンゴルではみんな知っててよく歌います。日本人が知らないのでびっくりしました。」と言う気持ちがよく分かります。
 一方で、「日本人が知らなくて当然。モンゴルの人が日本語で『こんな歌がありますよ!』と言わないと日本人は、関心がないから、知らないままになるでしょ。」
とも思いました。

 幸いモンゴル語の「ヒロシマの少女の折り鶴」はドキュメンタリー番組まで作られ、日本に知られるようになりました。
 やはり、取材や調査をして、報道する人が現れたからですよ。この歌は運が良かったのです。
 運がないばかりに、世界では知られているのに、日本人が把握していない「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした芸術作品がまだ数多く埋もれていると思います。

 ロシア語(とベラルーシ語)に関しては、私が掘り起こすつもりで、このブログ記事を書いています。

(11)に続く。
 
 

(9) 歌「日本の鶴」(1971年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 前回紹介した歌「鶴」より、はっきりと佐々木禎子さんをモデルにした歌が1971年に発表されました。

 「Японский журавлик」日本語の訳すと「日本の鶴」です。ロシア語だと単数形で、鶴は一羽しかいません。
 ウラジーミル・ラザレフ作詞 (1936-)
 セラフィーム・トゥリコフ作曲 (1914-2004)
 ガリーナ・ネナシェワ歌 1971年 (1941-)

 この歌をベラルーシの子どもたちに聞かせています。

 歌詞の内容は、序文に書いたように翻訳しませんが、要約してみます。

 日本へ行って帰ってきた友人がお土産に折り鶴をくれた。そして、被爆した少女のことを話してくれた・・・
 少女は千羽鶴を作ったら元気になれると、作り続けたが死んでしまった。
 折り鶴は永遠に生きる日本のお土産(贈り物)になった。

 明らかに「サダコの千羽鶴の物語」がモチーフです。
 そして、導入部分に「私は日本に行ったことはないけど、日本に行った友達が教えてくれた話ですよ。」とはっきり書いています。
 やはり、タンクやクチンと同じく「この話をシェアしますよ。」というメッセンジャーとしての作品の書き方です。客観的と言えます。
 ガムザトフの詩「鶴」のように冒頭から「私はこう思う。」という詩は主観です。

 やはり外国人で、被爆者でもない詩人としては、客観的にならざるを得ないのかもしれません。
 ある意味、冷静です。
 しかし、この歌を聞いて涙ぐむベラルーシ人の子どももいます。

 作詞者のウラジーミル・ラザレフは、何から着想を得てこの詩を書いたのでしょう。映画「こんにちは、子どもたち!」を見たのかもしれないし、新聞記事を読んだのかもしれないし、過去の詩人の作品を読んだのかもしれません。
 しかし、歌詞に書いたことが事実だとすると、実際に日本へ行った友達がいて、その友達が折り鶴をくれて、
「日本にいたときに広島へ行ったんだよ。平和記念公園にも言って、そのとき白血病になった女の子の話を聞いたんだよ。」
と語って聞かせたことになります。

 当時はソ連時代で冷戦時代でもあったので、ソ連人で日本に来ることができた人は非常に少なかったです。1971年の芳名帳など調べたら、ウラジーミル・ラザレフの友達が誰なのか分かりそうですが、遠いベラルーシに住んでいる私には難しいので調べることはしません。
 その前に本人に直接聞くほうが早いと思って調べたら、ウラジーミル・ラザレフは1999年にアメリカへ移住していました。フェイスブックとかしていたら、ロシア語で質問できると思ったのですが、そういったものはされていないようなので連絡がつきません。
 (序文に書いたように、徹底的には調べる気はないです。)
 
 この歌もYouTubeで「Японский журавлик Ненашева」検索すると視聴することができます。関心のある方はどうぞ。

 画像は1971年にリリースされた「日本の歌」がB面に収録されたレコードです。
 こうして1971年から「サダコの千羽鶴の物語」は歌の力を借りて、ロシア語圏に広がることになります。

(10)に続く。