次にまた「サダコの千羽鶴の物語」を歌にした作品「Бумажные журавлики」が発表されました。
直訳するとタイトルは「紙の鶴(複数形)」ですが日本語訳は「折り鶴」にしておきます。
この曲が発表された時期を調べたのですが、はっきり分かりませんでした。
おそらく1979年だと思いますが、確証がないです。ただどんなに遅くても1982年までには完成していたことが分かっています。
すでに発表されていた歌「日本の鶴」(1971年)を踏まえた上で作られた楽曲ですね。
注目すべきは作詞作曲歌がカザフスタンの女性という点です。
作詞作曲はイリーナ・グリブリナ(1953−)、歌はローザ・ルィムバエワ(1957−)です。
この歌を視聴したい方はYouTubeで検索してください。Бумажные журавлики Роза Рымбаева Ирина Грибулинаでヒットします。
著作権などの事情により、私は歌詞は訳しません。
ただ、言えることは、歌詞の中に佐々木禎子という名前は出てきませんが、「女の子は千羽鶴を作りながら死と対話していた。」「日本であの子は死んでしまった。」「広島の心の痛み、そして涙」というフレーズが出ています。
明らかに「サダコの千羽鶴の物語」を歌詞にしています。
歌「日本の鶴」は作詞者が男性で、日本から帰ってきた友人から「サダコの千羽鶴の物語」を聞いたから、シェアしたいという意思が全面に出ていました。
この「折り鶴」は作詞者が女性なので、子どもに対する母性愛を前面に出した歌詞となっています。
「戦争で運命を変えられた広島の子どもたちのことを忘れないで」「子どもたちは済んだ目で空を見上げる。地上には悲劇が起こる。」
という内容の歌詞があり、本物の鶴ではなく、紙で作った鶴に対して、「空へ飛んでゆけ!」と呼びかけるのは、よくある表現ですが、さらに「いろんな色の紙の翼で地球を抱きしめて!」とサビで繰り返します。
やはり詩の内容が女性的、母性的だと思います。
旧ソ連時代、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場では1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験が繰り返されていました。健康被害も報告され、1991年8月29日に正式に閉鎖されます。
ロシア語ですが、カザフスタン人によって書かれ、歌われた「折り鶴」は広島の原爆のことを歌っていますが、その背景には祖国にある核実験場のことがあったと思われます。
当時のソ連社会の構造、時代背景(戦後の時代、冷戦時代)を考えると、自国とは離れた国(日本)で被爆して死んだ少女のことを歌うことによって、暗に自国の核実験推進政策を批判しようという意図のある表現者がいてもおかしくありません。
この歌そのものはヒットして反戦反核の歌として、ラジオで流されソ連中に広がっていきます。
また米ソ冷戦時代においては、広島と長崎の原爆は悲劇であるからそのことを題材に反戦ソングを作るのは、
「こんな非道なことをした残酷なアメリカ。われわれの敵国はこんなにひどい国ですよ。」
と宣伝したいソ連としては、利用できる都合のいい歌です。
だからラジオで全国に流されます。
歌を作った人たちは、アメリカへの批判ではなく、純粋に戦争のせいで死んだ子どもの鎮魂、平和を求める気持ちで作っていたとしてもです。
ところで、カザフスタン人がロシア語で「折り鶴」をいう曲を作ったと思われる1979年にはモンゴルで「ヒロシマの少女の折り鶴」という歌が作られました。その後毎年8月6日になると、ウランバートルの国営ラジオ局が放送します。
こんな歌があるということが日本も知られたのは1992年になってからです。
詳しくは「折り鶴は世界にはばたいた」(うみのしほ作 PHP出版)第4章に書かれています。
要約すると、モンゴルから日本へ音楽留学していたオユンナさんが、新聞の取材で「モンゴルではみんな知っててよく歌います。」と紹介し、「日本人が知らないのでびっくりしました。」と話した。
その後、日本のテレビ局の記者がオユンナさんに取材、さらに作詞作曲者を探してモンゴルへ取材。作詞者ヤオホラン・インへに取材。
その説明によると、1977年にモンゴルの保養地で日本人の留学生と出会った。その日本人は折り鶴をインへさんにプレゼントし、佐々木禎子さんの千羽鶴の話をした。(その日本人が誰なのかテレビ局の取材では分からずじまい。)
インへは「ヒロシマの少女の折り鶴」という詩を書いた。ダリザリフ・ダッシンニャムという軍所属の歌手が作曲。
日本のテレビ局がドキュメンタリー番組を制作し、1993年に放映。
このモンゴル語の歌は日本でも知られるようになりました。広島平和記念資料館にも所蔵されています。
(上記の引用先の文献で、76ページにモンゴルはソ連の影響下にあり、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」と書かれています。これが取材したテレビ局の1993年の認識として書かれたものなのか、本書が執筆された1998年の著者の認識によるものなのかはっきりしません。しかし、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」というのは間違いです。こちらの記事を御覧ください。1962年と1964年のソ連時代、すでにロシア語の本が出版されています。1979年までに佐々木禎子さんのことは1958年以降から新聞にも掲載されていたし、サダコに捧げる詩や歌が複数存在していました。)
私としてはオユンナさんが「モンゴルではみんな知っててよく歌います。日本人が知らないのでびっくりしました。」と言う気持ちがよく分かります。
一方で、「日本人が知らなくて当然。モンゴルの人が日本語で『こんな歌がありますよ!』と言わないと日本人は、関心がないから、知らないままになるでしょ。」
とも思いました。
幸いモンゴル語の「ヒロシマの少女の折り鶴」はドキュメンタリー番組まで作られ、日本に知られるようになりました。
やはり、取材や調査をして、報道する人が現れたからですよ。この歌は運が良かったのです。
運がないばかりに、世界では知られているのに、日本人が把握していない「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした芸術作品がまだ数多く埋もれていると思います。
ロシア語(とベラルーシ語)に関しては、私が掘り起こすつもりで、このブログ記事を書いています。
(11)に続く。
直訳するとタイトルは「紙の鶴(複数形)」ですが日本語訳は「折り鶴」にしておきます。
この曲が発表された時期を調べたのですが、はっきり分かりませんでした。
おそらく1979年だと思いますが、確証がないです。ただどんなに遅くても1982年までには完成していたことが分かっています。
すでに発表されていた歌「日本の鶴」(1971年)を踏まえた上で作られた楽曲ですね。
注目すべきは作詞作曲歌がカザフスタンの女性という点です。
作詞作曲はイリーナ・グリブリナ(1953−)、歌はローザ・ルィムバエワ(1957−)です。
この歌を視聴したい方はYouTubeで検索してください。Бумажные журавлики Роза Рымбаева Ирина Грибулинаでヒットします。
著作権などの事情により、私は歌詞は訳しません。
ただ、言えることは、歌詞の中に佐々木禎子という名前は出てきませんが、「女の子は千羽鶴を作りながら死と対話していた。」「日本であの子は死んでしまった。」「広島の心の痛み、そして涙」というフレーズが出ています。
明らかに「サダコの千羽鶴の物語」を歌詞にしています。
歌「日本の鶴」は作詞者が男性で、日本から帰ってきた友人から「サダコの千羽鶴の物語」を聞いたから、シェアしたいという意思が全面に出ていました。
この「折り鶴」は作詞者が女性なので、子どもに対する母性愛を前面に出した歌詞となっています。
「戦争で運命を変えられた広島の子どもたちのことを忘れないで」「子どもたちは済んだ目で空を見上げる。地上には悲劇が起こる。」
という内容の歌詞があり、本物の鶴ではなく、紙で作った鶴に対して、「空へ飛んでゆけ!」と呼びかけるのは、よくある表現ですが、さらに「いろんな色の紙の翼で地球を抱きしめて!」とサビで繰り返します。
やはり詩の内容が女性的、母性的だと思います。
旧ソ連時代、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場では1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験が繰り返されていました。健康被害も報告され、1991年8月29日に正式に閉鎖されます。
ロシア語ですが、カザフスタン人によって書かれ、歌われた「折り鶴」は広島の原爆のことを歌っていますが、その背景には祖国にある核実験場のことがあったと思われます。
当時のソ連社会の構造、時代背景(戦後の時代、冷戦時代)を考えると、自国とは離れた国(日本)で被爆して死んだ少女のことを歌うことによって、暗に自国の核実験推進政策を批判しようという意図のある表現者がいてもおかしくありません。
この歌そのものはヒットして反戦反核の歌として、ラジオで流されソ連中に広がっていきます。
また米ソ冷戦時代においては、広島と長崎の原爆は悲劇であるからそのことを題材に反戦ソングを作るのは、
「こんな非道なことをした残酷なアメリカ。われわれの敵国はこんなにひどい国ですよ。」
と宣伝したいソ連としては、利用できる都合のいい歌です。
だからラジオで全国に流されます。
歌を作った人たちは、アメリカへの批判ではなく、純粋に戦争のせいで死んだ子どもの鎮魂、平和を求める気持ちで作っていたとしてもです。
ところで、カザフスタン人がロシア語で「折り鶴」をいう曲を作ったと思われる1979年にはモンゴルで「ヒロシマの少女の折り鶴」という歌が作られました。その後毎年8月6日になると、ウランバートルの国営ラジオ局が放送します。
こんな歌があるということが日本も知られたのは1992年になってからです。
詳しくは「折り鶴は世界にはばたいた」(うみのしほ作 PHP出版)第4章に書かれています。
要約すると、モンゴルから日本へ音楽留学していたオユンナさんが、新聞の取材で「モンゴルではみんな知っててよく歌います。」と紹介し、「日本人が知らないのでびっくりしました。」と話した。
その後、日本のテレビ局の記者がオユンナさんに取材、さらに作詞作曲者を探してモンゴルへ取材。作詞者ヤオホラン・インへに取材。
その説明によると、1977年にモンゴルの保養地で日本人の留学生と出会った。その日本人は折り鶴をインへさんにプレゼントし、佐々木禎子さんの千羽鶴の話をした。(その日本人が誰なのかテレビ局の取材では分からずじまい。)
インへは「ヒロシマの少女の折り鶴」という詩を書いた。ダリザリフ・ダッシンニャムという軍所属の歌手が作曲。
日本のテレビ局がドキュメンタリー番組を制作し、1993年に放映。
このモンゴル語の歌は日本でも知られるようになりました。広島平和記念資料館にも所蔵されています。
(上記の引用先の文献で、76ページにモンゴルはソ連の影響下にあり、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」と書かれています。これが取材したテレビ局の1993年の認識として書かれたものなのか、本書が執筆された1998年の著者の認識によるものなのかはっきりしません。しかし、「ソ連ではサダコの本は出版されていない。」というのは間違いです。こちらの記事を御覧ください。1962年と1964年のソ連時代、すでにロシア語の本が出版されています。1979年までに佐々木禎子さんのことは1958年以降から新聞にも掲載されていたし、サダコに捧げる詩や歌が複数存在していました。)
私としてはオユンナさんが「モンゴルではみんな知っててよく歌います。日本人が知らないのでびっくりしました。」と言う気持ちがよく分かります。
一方で、「日本人が知らなくて当然。モンゴルの人が日本語で『こんな歌がありますよ!』と言わないと日本人は、関心がないから、知らないままになるでしょ。」
とも思いました。
幸いモンゴル語の「ヒロシマの少女の折り鶴」はドキュメンタリー番組まで作られ、日本に知られるようになりました。
やはり、取材や調査をして、報道する人が現れたからですよ。この歌は運が良かったのです。
運がないばかりに、世界では知られているのに、日本人が把握していない「サダコの千羽鶴の物語」をモチーフにした芸術作品がまだ数多く埋もれていると思います。
ロシア語(とベラルーシ語)に関しては、私が掘り起こすつもりで、このブログ記事を書いています。
(11)に続く。