みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

(9) 歌「日本の鶴」(1971年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 前回紹介した歌「鶴」より、はっきりと佐々木禎子さんをモデルにした歌が1971年に発表されました。

 「Японский журавлик」日本語の訳すと「日本の鶴」です。ロシア語だと単数形で、鶴は一羽しかいません。
 ウラジーミル・ラザレフ作詞 (1936-)
 セラフィーム・トゥリコフ作曲 (1914-2004)
 ガリーナ・ネナシェワ歌 1971年 (1941-)

 この歌をベラルーシの子どもたちに聞かせています。

 歌詞の内容は、序文に書いたように翻訳しませんが、要約してみます。

 日本へ行って帰ってきた友人がお土産に折り鶴をくれた。そして、被爆した少女のことを話してくれた・・・
 少女は千羽鶴を作ったら元気になれると、作り続けたが死んでしまった。
 折り鶴は永遠に生きる日本のお土産(贈り物)になった。

 明らかに「サダコの千羽鶴の物語」がモチーフです。
 そして、導入部分に「私は日本に行ったことはないけど、日本に行った友達が教えてくれた話ですよ。」とはっきり書いています。
 やはり、タンクやクチンと同じく「この話をシェアしますよ。」というメッセンジャーとしての作品の書き方です。客観的と言えます。
 ガムザトフの詩「鶴」のように冒頭から「私はこう思う。」という詩は主観です。

 やはり外国人で、被爆者でもない詩人としては、客観的にならざるを得ないのかもしれません。
 ある意味、冷静です。
 しかし、この歌を聞いて涙ぐむベラルーシ人の子どももいます。

 作詞者のウラジーミル・ラザレフは、何から着想を得てこの詩を書いたのでしょう。映画「こんにちは、子どもたち!」を見たのかもしれないし、新聞記事を読んだのかもしれないし、過去の詩人の作品を読んだのかもしれません。
 しかし、歌詞に書いたことが事実だとすると、実際に日本へ行った友達がいて、その友達が折り鶴をくれて、
「日本にいたときに広島へ行ったんだよ。平和記念公園にも言って、そのとき白血病になった女の子の話を聞いたんだよ。」
と語って聞かせたことになります。

 当時はソ連時代で冷戦時代でもあったので、ソ連人で日本に来ることができた人は非常に少なかったです。1971年の芳名帳など調べたら、ウラジーミル・ラザレフの友達が誰なのか分かりそうですが、遠いベラルーシに住んでいる私には難しいので調べることはしません。
 その前に本人に直接聞くほうが早いと思って調べたら、ウラジーミル・ラザレフは1999年にアメリカへ移住していました。フェイスブックとかしていたら、ロシア語で質問できると思ったのですが、そういったものはされていないようなので連絡がつきません。
 (序文に書いたように、徹底的には調べる気はないです。)
 
 この歌もYouTubeで「Японский журавлик Ненашева」検索すると視聴することができます。関心のある方はどうぞ。

 画像は1971年にリリースされた「日本の歌」がB面に収録されたレコードです。
 こうして1971年から「サダコの千羽鶴の物語」は歌の力を借りて、ロシア語圏に広がることになります。

(10)に続く。


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