1958年にベラルーシの国民的詩人マクシム・タンク(1912-1995)が、ベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは、間違いありません。
しかし、ベラルーシ語原詩が詩集「Мой хлеб надзённы」に収録され、発表されたのは1962年のことです。
この詩集「Мой хлеб надзённы」そのものは見つけられませんでしたが、マクシム・タンク全集第3巻に詩集がそのまま収録されています。
(Максім ТАНК, Збор твораў, 3 том Вершы (1954-1964), Мінск, 2007, Беларуская навука, Нацыянальная Академія навук Беларусі, Інстытут літаратуры імя Янкі Купалы)
画像は105ページに掲載された「佐々木禎子の鶴」の前半部分です。
これを見るとタイトルに続いて、「新聞からの引用」が書かれています。この部分に、どうしてタンクが「佐々木禎子の鶴」という詩を書くことにしたのか理由が書いてあるのです。
このブログの投稿記事序文に理由を書きましたが、私は作品をベラルーシ語あるいはロシア語から日本語に翻訳するつもりはないので、この「新聞からの引用」も詩の本文も訳しません。
しかし、「新聞からの引用」の内容を要約すると、以下のことが分かります。
1 作者であるマクシム・タンクはおそらくロシア語で書かれたソ連の新聞を読んで、サダコと千羽鶴の物語を知った。
2 佐々木禎子さんは自分の健康を願い、千羽鶴を折ったが、643羽しか作ることができなかったとロシア語でソ連の新聞で報道された。
3 佐々木禎子さんの慰霊碑が建立されたが、日本の子どもたちが主体だったことも報道された。
この「新聞からの引用」ですが、タンクは、何という新聞のいつの日付の記事を引用したのか記していません。詩の作品の一部として、新聞記事の内容を挿入しているわけですから、引用元を細々書かないことにしたのでしょう。
ただ、はっきり言えるのは、この新聞は1958年5月5日に建立された原爆の子の像建立をニュースにしたものであり、1958年5月5日以降12月31日までに発行されたソ連の新聞を一つ一つ探せば、タンクが情報源にした新聞に行き着くことができるということです。
(序文に書いたように私はベラルーシ国立図書館に行って、1958年のソ連の新聞を全部探す気力はないです。)
ここで問題なのは、佐々木禎子さんが643羽しか折り鶴を作れなかったと、ソ連の新聞記者が書いたという点です。
佐々木禎子さんは実際には1300羽は作っていたことはまちがいありません。
そもそもこの643羽という数字はどこから出てきたのか気になり、調べてみました。
結論を先に言うと、他にも644羽説や700数羽説などいろんな数字が出てくるのです。
佐々木禎子さんが亡くなったのは、1955年10月25日で、そのとき、お棺に折り鶴を参列者が入れたりしているので、ご遺族がそんな状況のときに「うちの子、643羽までは作ったのに。あ、ちがう。えーといくつかな。今から数えよう。」などとのんびり数えていたとはとても思えません。
ところが、1955年10月25日から1958年5月5日までの間、およそ2年半の間に折り鶴の数に関しては、いくつか説が出てきており、その一つが643羽説だったことは間違いないようです。
そして、この643羽説を聞いたソ連人の新聞記者がそのまま記事に書き、それを読んだベラルーシ人のマクシム・タンクが、自分の作品の中に新聞記事をそのまま引用して、詩の一部分にしてしまった、ということです。
この643羽説については次の記事(3)に続きます。
ちなみにタンクはこの詩を書いた時点では、日本に行ったことは全くありませんでしたが、政治家になってから来日し、その後「富士山」「ハチ公」というベラルーシ語の詩を書いています。1976年にこの作品が書かれているので、その少し前に来日したと思われるのですが、記録は見つかりませんでした。私がもっと頑張ればはっきり分かるのですが、序文に書いたように、調べ尽くす気持ちあありませんし、この2つの作品も日本語に訳しましたが、公表する気は今のありません。
しかし、ベラルーシ語原詩が詩集「Мой хлеб надзённы」に収録され、発表されたのは1962年のことです。
この詩集「Мой хлеб надзённы」そのものは見つけられませんでしたが、マクシム・タンク全集第3巻に詩集がそのまま収録されています。
(Максім ТАНК, Збор твораў, 3 том Вершы (1954-1964), Мінск, 2007, Беларуская навука, Нацыянальная Академія навук Беларусі, Інстытут літаратуры імя Янкі Купалы)
画像は105ページに掲載された「佐々木禎子の鶴」の前半部分です。
これを見るとタイトルに続いて、「新聞からの引用」が書かれています。この部分に、どうしてタンクが「佐々木禎子の鶴」という詩を書くことにしたのか理由が書いてあるのです。
このブログの投稿記事序文に理由を書きましたが、私は作品をベラルーシ語あるいはロシア語から日本語に翻訳するつもりはないので、この「新聞からの引用」も詩の本文も訳しません。
しかし、「新聞からの引用」の内容を要約すると、以下のことが分かります。
1 作者であるマクシム・タンクはおそらくロシア語で書かれたソ連の新聞を読んで、サダコと千羽鶴の物語を知った。
2 佐々木禎子さんは自分の健康を願い、千羽鶴を折ったが、643羽しか作ることができなかったとロシア語でソ連の新聞で報道された。
3 佐々木禎子さんの慰霊碑が建立されたが、日本の子どもたちが主体だったことも報道された。
この「新聞からの引用」ですが、タンクは、何という新聞のいつの日付の記事を引用したのか記していません。詩の作品の一部として、新聞記事の内容を挿入しているわけですから、引用元を細々書かないことにしたのでしょう。
ただ、はっきり言えるのは、この新聞は1958年5月5日に建立された原爆の子の像建立をニュースにしたものであり、1958年5月5日以降12月31日までに発行されたソ連の新聞を一つ一つ探せば、タンクが情報源にした新聞に行き着くことができるということです。
(序文に書いたように私はベラルーシ国立図書館に行って、1958年のソ連の新聞を全部探す気力はないです。)
ここで問題なのは、佐々木禎子さんが643羽しか折り鶴を作れなかったと、ソ連の新聞記者が書いたという点です。
佐々木禎子さんは実際には1300羽は作っていたことはまちがいありません。
そもそもこの643羽という数字はどこから出てきたのか気になり、調べてみました。
結論を先に言うと、他にも644羽説や700数羽説などいろんな数字が出てくるのです。
佐々木禎子さんが亡くなったのは、1955年10月25日で、そのとき、お棺に折り鶴を参列者が入れたりしているので、ご遺族がそんな状況のときに「うちの子、643羽までは作ったのに。あ、ちがう。えーといくつかな。今から数えよう。」などとのんびり数えていたとはとても思えません。
ところが、1955年10月25日から1958年5月5日までの間、およそ2年半の間に折り鶴の数に関しては、いくつか説が出てきており、その一つが643羽説だったことは間違いないようです。
そして、この643羽説を聞いたソ連人の新聞記者がそのまま記事に書き、それを読んだベラルーシ人のマクシム・タンクが、自分の作品の中に新聞記事をそのまま引用して、詩の一部分にしてしまった、ということです。
この643羽説については次の記事(3)に続きます。
ちなみにタンクはこの詩を書いた時点では、日本に行ったことは全くありませんでしたが、政治家になってから来日し、その後「富士山」「ハチ公」というベラルーシ語の詩を書いています。1976年にこの作品が書かれているので、その少し前に来日したと思われるのですが、記録は見つかりませんでした。私がもっと頑張ればはっきり分かるのですが、序文に書いたように、調べ尽くす気持ちあありませんし、この2つの作品も日本語に訳しましたが、公表する気は今のありません。