みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

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(2) 詩「佐々木禎子の鶴」 (1959年) ベラルーシ語原詩

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 1958年にベラルーシの国民的詩人マクシム・タンク(1912-1995)が、ベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは、間違いありません。
 しかし、ベラルーシ語原詩が詩集「Мой хлеб надзённы」に収録され、発表されたのは1962年のことです。
 この詩集「Мой хлеб надзённы」そのものは見つけられませんでしたが、マクシム・タンク全集第3巻に詩集がそのまま収録されています。
(Максім ТАНК, Збор твораў, 3 том Вершы (1954-1964), Мінск, 2007, Беларуская навука, Нацыянальная Академія навук Беларусі, Інстытут літаратуры імя Янкі Купалы)

 画像は105ページに掲載された「佐々木禎子の鶴」の前半部分です。
 これを見るとタイトルに続いて、「新聞からの引用」が書かれています。この部分に、どうしてタンクが「佐々木禎子の鶴」という詩を書くことにしたのか理由が書いてあるのです。
 
 このブログの投稿記事序文に理由を書きましたが、私は作品をベラルーシ語あるいはロシア語から日本語に翻訳するつもりはないので、この「新聞からの引用」も詩の本文も訳しません。
 しかし、「新聞からの引用」の内容を要約すると、以下のことが分かります。
1 作者であるマクシム・タンクはおそらくロシア語で書かれたソ連の新聞を読んで、サダコと千羽鶴の物語を知った。
2 佐々木禎子さんは自分の健康を願い、千羽鶴を折ったが、643羽しか作ることができなかったとロシア語でソ連の新聞で報道された。
3 佐々木禎子さんの慰霊碑が建立されたが、日本の子どもたちが主体だったことも報道された。

 この「新聞からの引用」ですが、タンクは、何という新聞のいつの日付の記事を引用したのか記していません。詩の作品の一部として、新聞記事の内容を挿入しているわけですから、引用元を細々書かないことにしたのでしょう。

 ただ、はっきり言えるのは、この新聞は1958年5月5日に建立された原爆の子の像建立をニュースにしたものであり、1958年5月5日以降12月31日までに発行されたソ連の新聞を一つ一つ探せば、タンクが情報源にした新聞に行き着くことができるということです。
(序文に書いたように私はベラルーシ国立図書館に行って、1958年のソ連の新聞を全部探す気力はないです。)

 ここで問題なのは、佐々木禎子さんが643羽しか折り鶴を作れなかったと、ソ連の新聞記者が書いたという点です。
 佐々木禎子さんは実際には1300羽は作っていたことはまちがいありません。
 そもそもこの643羽という数字はどこから出てきたのか気になり、調べてみました。
 結論を先に言うと、他にも644羽説や700数羽説などいろんな数字が出てくるのです。

 佐々木禎子さんが亡くなったのは、1955年10月25日で、そのとき、お棺に折り鶴を参列者が入れたりしているので、ご遺族がそんな状況のときに「うちの子、643羽までは作ったのに。あ、ちがう。えーといくつかな。今から数えよう。」などとのんびり数えていたとはとても思えません。

 ところが、1955年10月25日から1958年5月5日までの間、およそ2年半の間に折り鶴の数に関しては、いくつか説が出てきており、その一つが643羽説だったことは間違いないようです。
 そして、この643羽説を聞いたソ連人の新聞記者がそのまま記事に書き、それを読んだベラルーシ人のマクシム・タンクが、自分の作品の中に新聞記事をそのまま引用して、詩の一部分にしてしまった、ということです。

 この643羽説については次の記事(3)に続きます。 

 ちなみにタンクはこの詩を書いた時点では、日本に行ったことは全くありませんでしたが、政治家になってから来日し、その後「富士山」「ハチ公」というベラルーシ語の詩を書いています。1976年にこの作品が書かれているので、その少し前に来日したと思われるのですが、記録は見つかりませんでした。私がもっと頑張ればはっきり分かるのですが、序文に書いたように、調べ尽くす気持ちあありませんし、この2つの作品も日本語に訳しましたが、公表する気は今のありません。
 
 

(1) 詩「佐々木禎子の鶴」 マクシム・タンク ベラルーシ語(1958年)ロシア語訳(1959年)

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 広島の原爆で被曝し、1955年に白血病のため亡くなった佐々木禎子さんを明らかに題材にした作品で、ロシア語で発表されたものを探していましたが、現時点で見つかったもののうち、もっとも古く書かれていたのは、1958年、マクシム・タンクがベラルーシ語で書いた詩「佐々木禎子の鶴」でした。

 マクシム・タンクはベラルーシの国民的詩人で、ベラルーシでは知らない人がいない有名人です。
 そのタンクがロシア語ではなくベラルーシ語で書いた詩が、ロシア語圏内では佐々木禎子さんを題材にした作品の中では最も古い(推定)ことが分かり、私も思うところがありました。
 当時はロシアもベラルーシもソ連という国だったのですが、公用語はロシア語でした。そんな中で、ソ連の端にある国でしか使われていないベラルーシ語でベラルーシ人の詩人が、佐々木禎子とフルネームを出した詩を書いたことには意義があります。
 当時は冷戦時代で、アメリカもソ連も核実験を繰り返していました。ソ連ではセミパラチンスクが実験場でしたが、これは今のカザフスタンにあります。ロシア国内ではないのです。

 さて、マクシム・タンクはベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは1958年と記したものの、実際にこの詩が、詩集「Мой хлеб надзённы」に収録されて発表されたのは1962年のことです。
 ところがこの詩は、ロシア語に翻訳されて、まずはロシア語の作品として、単独で文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の93ページに掲載されました。この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、
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 この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、ベラルーシ人しか知らないベラルーシ語で発表するより、ロシア語で雑誌に載せるほうが多くの人に読んでもらえる、つまり佐々木禎子さんのネームバリューも大きくなったと思います。

 ただ、このロシア語訳は Я. Хелемскийという翻訳者が担当したのですが、作品の一部(新聞記事からの引用部分)を訳していないのです。 
 省略された部分はベラルーシ語オリジナルで読む必要があります。(2)に続く

・・・
 画像は「佐々木禎子の鶴」ロシア語訳が掲載された文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の表紙。これがロシア語で「サダコの千羽鶴」を題材にしたロシア語で最初の文芸作品と思われます。(推定)

文化の広がり サダコの千羽鶴について 序文

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 ベラルーシの詩人、ジャルハイが1957年に「広島」というベラルーシ語の詩を書いていたことについてすでに投稿しました。
 その前からも、その後も絵本「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」(うみのしほ・作 狩野富貴子・絵 PHP研究所・出版)を使って、ベラルーシの小学生を対象におりづるのワークショップを続けています。
 そんな中、いわゆる「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語、つまりソ連圏でどれぐらい広がっているのか気になりました。
 ここで言う「サダコの千羽鶴の物語」とは、「広島の原爆により被曝し、白血病になった少女、サダコ(モデルは佐々木禎子さん)が快癒を願って千羽鶴を折ったが、願いは叶わず死んでしまった。」というストーリーのことです。

 以前「おりづるの旅」をゴメリの児童図書館に寄付したとき、司書の方が、こんな歌がありますよ、とわざわざかけてくれた歌で「日本の鶴」という歌があったのです。
 それを今度は私がミンスクの児童図書館で小学生に聞かせていたのですが、「日本の鶴」というタイトルの歌なのに、日本人の私が知らなかったのです。

 それも日本人として恥ずかしいかなと考え、ロシア人がロシア語で作った歌、しかも1971年の発表で、今からちょうど50年前の歌であることから、ロシアとベラルーシ、つまりソ連圏で、どれぐらい「サダコの千羽鶴の物語」は広がっているのか、もう少し詳しく調べることにしました。

 その結果、驚くほどいろいろな作品に登場していたことが分かりました。
 堂々と「佐々木禎子さんに捧ぐ」と献辞が冒頭に書かれている作品もあります。
 しかし、佐々木禎子さんはもう故人なので、当然ですが自分にロシア人がロシア語で詩を書いて捧げていても知るよしもありません。
 見方を変えると、故人だからと、作品を作る側が勝手に献辞して、売名行為をしているようにも見える場合もあります。
 献辞した外国人は佐々木禎子さんのご遺族には、もちろん連絡をしないので、こんなにたくさんのロシア語作品が禎子さんに捧げられていることをご遺族も知りません。
 ご遺族も、ああ、どんどん勝手に故人の名前を使ってもいいよ、売名行為に使ってもいいよと思われているかもしれません。
 外国語だから、世界中で佐々木禎子の名前を使っていても、いちいち把握しようがないと思われているでしょう。

 また別の考え方では、例えば大学の先生で、日本の文化の一つとして、佐々木禎子さんの名あるいは「サダコの千羽鶴の物語」がどのぐらい世界に広がっているのか研究している人がいれば、ご遺族は把握しなくてもいいわけです。
 しかし、私は大学で文化学を教えているような身分でもないですし、誰かに研究してくださいと強要するわけにもいきません。
 このような資料を収集、保管すべき広島平和記念資料館の所蔵リストにもなく、資料館側も、経年劣化が進んでいる被爆者の遺品収集に注力しているせいか、世界に広がる平和運動に関しては、外国語の文化資料には熱心ではありません。

 また著作権の問題があり、ロシア語作品の内容を日本の方にお知らせしたくて、日本語に翻訳したくとも、原作者やあるいはその遺族の許可がいちいち必要なので、翻訳する気力が私にはありません。

(ちなみに詩「広島」の作者シャルハイ・ジャルハイの著作権については、ベラルーシの著作権保護協会に連絡して、公式回答ももらい、すでに著作権そのものが消滅していることを法的に確認済みです。)

 それに日本人に
「佐々木禎子さんのことがロシア語で作品になっているんですよ。」
と言ったところで、ふーん・・・ぐらいの反応しかなさそうです。
 逆にベラルーシ人に
「ベラルーシの○○が日本語に翻訳されて、日本人は知ってるんですよ。」
と教えてあげたら
「え、本当?! うれしいなあ。ありがたい。」
と大喜びするんですが。
 まあ、日本人の意識だと
「日本の○○がロシア語に翻訳されて、ロシア人は知っているんですよ。」
とロシア人に言われても、
「そりゃそうだよ。日本の○○は、有名で人気で優れた作品なんだから。」
と驚かないでしょう。

 日本人が驚かないこと自体を、いいとか悪いとかこのブログ上で議論するつもりはありません。

 ともかく、私自身はロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりについて、広く日本人に、原爆被爆者に、研究者に、ご遺族に知らせようとは思いませんでした。

 一方で、今回いろいろ調べているときに感じたのは、やはりインターネット上で情報を残していると、いつか誰かがどこかで調べ始めたときに、見つけてもらえやすいということです。
 紙媒体で発表されたものの、その後デジタル化されていない情報は、今鎖国状態になっているベラルーシで、調査の対価(調査費用、発表への対価や評価、発表そのものの機会)もない私には探す労力を考えるとやる気が起きません。
 もちろん今回私が見つけられなかったものは存在していないもの、とは言えません。かと言って調査し尽くすこともできません。

 つまり中途半端なんですよね。内容も日本人に知らせても反応がなさそうだから、和訳する気力もないし、広島の平和運動関係者の依頼だったら、著作権の問題をクリアしてでも翻訳するけれど、日本人は世界で佐々木禎子さんがどのように扱われているのか関心がないので依頼もしてこないでしょう。

 このような事情により、完全網羅したわけでもなく、和訳もなく、自分の備忘録として、以下の記事を投稿します。
 もちろん心の片隅では、もしかしたら遠い将来、どこかの誰かが私のブログ(デジタル媒体情報)を見つけてくれて、サダコの千羽鶴の話の広がりの一枝として読んでくれる日が来るかもしれないとも考えています。
 そして、今回の私の記事の執筆を佐々木禎子さんの鎮魂に繋げたいです。
 さらに、今のベラルーシで生きる者として、私自身が戦争反対の立場でいる人間の表明にします。

広島の原爆投下から76年の今日から少しずつ記事を投稿します。ご興味のある方は御覧ください。
 (1)の記事はこちらです