こんにちは。
本日は、久しぶりに歴史上の人物について、
熱く語らせて下さいませ。
おつきあいいただけると、うれしいです。
(既出ながら、鎌倉、段葛)
子どもの頃から、親に連れられ出かけた鎌倉は、近しい街でした。
ここしばらくは、観光地としての人気に恐れをなし、
足が遠のいておりましたが・・・
最近、思いがけず、ご縁ができ、再び鎌倉を訪ねています。
コロナ禍のこと、ゆっくりと街歩きはできませんが、
「今日はここ!」と決め、ちょこっと立ち寄るようになりました。
(鎌倉で大姫の化身とされるイワタバコの花。)
そんななか・・・鎌倉というと・・・
必ず、思い出されるのが・・・
大姫。
源頼朝と夫人・北条政子の長女です。
拙ブログでも、既に、一度登場しております
前置きが長くなりましたが、
大姫の生涯を、まずは、ざっくりと、まとめてまいりましょう・・・
(既出ながら・・・源氏山公園、源頼朝公座像)
「大姫」とは「貴人の長女」のような意味合いで、本名はわかりません・・・
治承4(1180)年8月、
頼朝が伊豆で挙兵した時には、既に誕生していたので
戦乱の中、母・政子と共に、各地を転々として過ごていたはずです。
やがて、新しい街・鎌倉で、父はじっくりと関東の経営に当たります。
一方、このとき、西国で、平家軍を打ち破る活躍を見せたのが、
従兄弟の木曽義仲。
源氏の正嫡・頼朝、
従兄弟でである、木曽育ちの義仲
共に源氏である、二人の対立が危惧されました。
義仲は、頼朝に、異心のないことを誓うため、
嫡子・清水冠者・義高(シミズカジャ・ヨシタカ)を、鎌倉へ送ります。
名目は、頼朝の娘・大姫の許嫁ですが、実際は人質です。
当時、大姫は5,6歳、義高は11歳。
幼い二人は、仲睦まじく過ごします。
(義高ゆかりの大船・常楽寺)
ところが、義高の父・義仲は、平家を追って都入りしたものの、
その軍の乱暴な振る舞いに、後白河法皇のご機嫌を損ねてしまいました。
法王は、朝敵として、義仲を討つべよう、頼朝に命じます。
この結果、木曽義仲が、頼朝方に討たれたのは、
ひよどり越で知られる一ノ谷の合戦の前の月のことでした。
(1184/寿永3年2月)
さて、鎌倉では・・・
義仲の子・義高は危険人物、父・頼朝にとって、将来の不安材料です。
義高・暗殺計画の知らせが、大姫にもたらされます。
二人が暮らし始めて一年後のことです。
大姫の協力を得て、義高は鎌倉を脱出・・・
ところが、あえなく捕まり、殺されてしまいました。
これを知った大姫は、悲しみのあまり、飲食を絶つほどです。
この様子を見た母・政子は、怒りのあまり
義高を殺害した家臣を処罰をさせたものの・・・
大姫の心が癒えることはありませんでした。
(静は鶴岡八幡宮で舞ったとか)
その後、父・頼朝は、弟・義経を疑い、またも、討つように命じます。
1185(元暦2)年3月、吉野山中で、義経と別れた愛妾・静が捕らえられ、
鎌倉へ連行されました。
このとき鶴岡八幡宮で、「しづやしづ」と義経を恋い、舞ったのは有名な話。
静の生んだ赤子が男の子だったため、その子は殺され
傷心のまま、静は鎌倉を去ります。
大姫は、母・政子とともに、静に十分な援助をしたとか・・・
大姫と静、頼朝によって、愛する人を奪われた・・・と、
二人の心が強く響き合ったからこそでしょう。
その後も体調の優れない、大姫のために、両親は寺社詣でを繰り返します。
一時は、姫も回復し、京都から下向した貴人(一条高能)との間に
縁談が起こるものの・・・姫は、これを拒否。
無理にというなら、深淵に身を投げるとかたくなでした。
高能は、これを知り、想ってはならぬ人と、大姫をあきらめたとか・・・
(雪ノ下の勝長寿院跡。大姫が静養した地だとか・・・)
建久6(1195)年2月・・・
頼朝は政子と共に、大姫を連れ、上洛します。
東大寺供養が表向きの理由でしたが、
実は大姫の入内計画が勧められていたのです。
7月、鎌倉に戻るものの、大姫は10月には、また伏せってしまいます。
結局、建久8(1197)年7月14日、大姫は亡くなりました。
おそらく、19歳か、20歳の若さだったとのことです。
(表紙は上村松園の静でした。集英社さま、著作権、お見逃し下さいませ)
大姫を知ったのは、10代の頃、夢中になって読んだシリーズ
「人物日本の女性史」(集英社)の第3巻『源平争乱記の女性』↑でした。
「大姫」は、「北条政子」(外村久江)、「巴御前」(馬場あき子)で
触れられています。
もう40年以上前のこと、ネットなんてありませんから、
それこそ、この本を何度も読み返したものです。
大河ドラマ「草燃える」で、斎藤こずえさんが子ども時代を、
成長後の姿を池上季実子さんが演じられ、
今でも、その愛らしさ、美しさは忘れられません。
そして今、再び、大姫に惹かれています。
時代は流れ、少女だったわたしが還暦を目前。
大姫ゆかりの地もネットで検索できるようになりました。
それを手がかりに、今、鎌倉で、大姫の跡をたどっています。
一方で、やっぱり、活字派ゆえ・・・
何冊か、本も読みました。
(扇が谷の岩船地蔵堂。大姫ゆかりの地蔵が収められているとか)
・・・ああ、こんなに長くなってしまいました。
本当は、大姫ゆかりの地をアップしたかったのですが・・・
それは、いずれまた。
あわせて、大姫についても、まとめたいと思います。
長々と、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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本日の記事は、以下を参考にいたしました。
素人のこと故、間違いや勘違いもあろうかと存じますが、どうぞご容赦を。
●円地文子監修『源平争乱記の女性』(「人物日本の女性史」第3巻)集英社