おはようございます。
最近、ご縁のできた鎌倉、所用がてら、足を延ばして、
ほんの少し、歴史さんぽをするようになりました。
ここも、前記事に続き、10代の頃、夢中になった、大姫ゆかりの地なのです。
どうぞ、おつきあいくださいませ。
常楽寺は、朽木祥『月白青船山』にも登場しています。
「地味な禅寺だけど、鎌倉の寺の中では、一番好きだという人もいるって。
ガイドブックに書いてあったよ...」109頁
まさに、そんなお寺です。
鎌倉幕府三大執権・北条泰時の墓もあります。
でも、わたしの目的は、大姫w
大姫は、源頼朝と北条政子の長女ながら・・・
父・源頼朝に、許婚の清水冠者・義高を殺されてから、病に伏せることになった
悲劇のお姫様です。(詳しくは→「鎌倉さんぽ①憧れ再び」)
こちら常楽寺は、清水冠者義高の霊をまつった、
「木曽塚」があるということで、お参りしました。
・・・といっても、塚は、境内にではなく、
山門を正面にして、左手の小道をまっすぐ進んだ、丘の上にあります。↑
この丘が粟船山(アワフネヤマ)、地名「大船(オオフナ)」の由来なのだとか・・・
義高の塚は、地元・青年団が大正時代に建てた、
鎌倉ではお馴染みの石碑が建っています。
義高は、父・旭将軍(木曽義仲)の「痛烈」で「豪快」な生涯の
巻き添えで、若くして討たれ、その首級が、こちらに埋められたと・・・
ありました。
旧暦で、ちょうど端午の節句の頃でもあり、
塚の横には、鯉のぼりが飾られていて・・・
元服前の11,12歳で亡くなった、義高を偲ばせます。
(御本堂の裏手が木曽塚のある粟船山)
山の中腹には、「手前 姫君の墓」と書かれた立て札があり、
これが大姫の墓かもしれないそうです。
鎌倉幕府3代執権、北条泰時の娘の墓とも言われています。
大姫の墓だとしたら・・・
義高と並んで葬ってあげたら良いのに・・・
と思われてなりませんでした。
(塚の撮影は遠慮しました)
今更ですが、義高とは・・・
木曽義仲の嫡子であることは確かながら・・・
母は、はっきりしません。
馬場あき子氏は、巴御前の姉の子としていますし、
最近読んだ竹宮恵子『吾妻鏡』では、巴御前としています。
個人的には、巴御前の子だったら、良いなぁ・・・
いずれにしても、義仲も巴姉妹も、美男美女だったそうで・・・
義高も、絶対に美少年だったことでしょう♥
幼い大姫が、心奪われ、生涯想い続けた人ですものね・・・
(丘から鎌倉を眺める)
馬場あき子氏は、「清水冠者という少年が大姫に与えた影響の大きさに
今更ながら驚きながら...11歳の彼もまた、それなりの人格をもっていたのだ」
と書き、義高が、鎌倉へ旅立つにあたり、笠懸七番を射きったと続けます。
笠懸とは馬から矢を放ち的に当て、
流鏑馬よりも実践的で技術を要するのだとか・・・(Wikipediaによる)
「この行為だけしかしない世界のさわやかさを、少年は既に身をもち、
けなげにその運命に殉じようとしたのである...哀しいまでにかがやいていた、
何者かに向けて殉ずるものの姿勢である...そういう姿勢の純一さであった」
歴史の記述では、ほんの数行で終わる人生ながら・・・
義高という少年が、大姫に与えた影響、そしてそれが頼朝夫妻、
ひいては鎌倉幕府に与えた影響を考えると・・・
義高の死は、あまりに大きな代償に思えてなりません。
そして、哀しく、切なすぎて・・・だからこそ
幼い許婚の二人の恋は、千年近くの時が経っても語り伝えられるのでしょう。
来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、義高と大姫も登場します。
義高役は、市川染五郎丈が演じられるそうです♥
染ちゃんの義高姿を想像するだけで、あまりに美しすぎて、涙が・・・!!
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
記事については、素人のこと故、勘違いや間違いもあるかと存じますが、
どうぞ、お許し下さいませ。
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参考:
●円地文子監修『源平争乱記の女性』「人物日本の女性史3」(集英社)
本文の馬場あき子氏の文章は、本書138頁から引用しました。
●朽木祥『月白青船山』岩波書店
●『鎌倉の寺 小事典』かまくら春秋社
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